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Young London Exhibition at 20/20 Gallery in London, Ontario.Don Vincent, 1966, courtesy of arcpost.ca
“Has the Artist Been Paid?”, courtesy of CARFAC/RAAV
本稿は、コロナ禍以降に顕在化した日本の美術分野におけるアーティスト報酬問題を背景として、カナダのアーティスト団体CARFAC-RAAVが策定・運用する報酬ガイドラインを検討するものである。CARFAC-RAAVのガイドラインは、1968年に世界で初めて制定されたアーティスト自身による報酬基準であり、助成金制度と連動することで実質的な拘束力を持っている点に大きな特徴がある。本稿では、その歴史的背景、文化政策との関係、展示報酬を「労働の対価」ではなく「著作権の一部としての展示権」と捉える理論的枠組みを整理する。あわせて、日本における報酬ガイドライン策定の議論に対し、カナダの事例が示す示唆と、制度移植に際して想定される課題を明らかにする。
コロナ禍以降、日本においてアーティストの報酬や労働環境をめぐる議論が、これまでになく可視化された。展覧会や公演、制作の機会が相次いで失われるなかで、多くのアーティストが雇用関係にも十分な社会保障にも組み込まれていないという現実が、否応なく露呈したからである。
こうした状況は日本に限ったものではない。しかし、海外における補償制度や支援策と比較されるなかで、日本の美術分野における制度的脆弱性、とりわけアーティストの報酬を「権利」として位置づける仕組みの欠如は、より鮮明に浮かび上がった。
コロナ禍の初期、日本では政府に対して緊急の対策を求める署名運動が起こり、約5000筆の賛同が集まった。この動きは、フリーランスの芸術家や技術スタッフ、小規模団体を対象とした「文化芸術活動の継続支援事業」の実現に、微力ながらも寄与した(文化庁公式事業概要:https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/katsudoshien/)。art for allは、こうした署名運動を契機として、2020年にアートワーカーを中心に結成された団体である(団体概要:https://artforall.jp/)。
もっとも、この一連の取り組みは一定の成果を上げた一方で、日本におけるアーティストの権利意識の基盤の脆弱さや、社会的地位の不安定さといった、より根本的な課題も同時に浮き彫りにした。art for allではその後、「アーティストのための実践講座」として、「アーティストのためのお金の講座」「アーティストの生活と移動」「ハラスメント対策講座」「労災とは何か」「アーティストとケア」などのウェビナーを開催し、知識や情報の共有を通じて、アーティスト自身が自らの立場を理解し、言語化するための基盤づくりを試みてきた。
本稿は、こうした日本の状況を踏まえたうえで、海外の先行事例として、カナダにおけるCARFAC-RAAVのアーティスト報酬ガイドラインに注目するものである。
今なぜ、カナダの報酬ガイドラインなのか
カナダのアーティスト報酬ガイドラインは、CARFAC-RAAV(Canadian Artists’ Representation / Le Regroupement des artistes en arts visuels)が制定・運用するものである(公式サイト:https://carfac-raav.ca/)。このガイドラインの最大の特徴は、それが単なる「推奨」や「目安」にとどまらず、実質的な拘束力を持つ点にある。
ガイドラインを遵守しない展覧会主催機関や団体は、助成金の減額や打ち切りといった不利益を被る可能性があり、その意味で、アーティストの報酬が制度的に担保される仕組みとして機能している。
日本において報酬ガイドラインをめぐる議論が始まった際、しばしば「参考例」として言及されるのが、このCARFAC-RAAVのガイドラインである。しかし、その全体像や歴史的背景、なぜそれが成立し、今日まで更新され続けているのかについて、日本語で体系的に紹介された資料は多くない。本稿では、この点を補うことを目的とする。
CARFACは1968年に設立されたカナダ全国規模の視覚芸術家の代表組織であり、RAAVはケベック州を中心とするフランス語圏のアーティストを代表する団体である(RAAV公式:https://raav.org/)。カナダという国が持つ言語的・文化的多様性を反映し、英語圏と仏語圏の双方のアーティストを包括する形で連携している点は、この組織の大きな特徴である。
CARFAC-RAAVは、政府や美術館、ギャラリーといった制度側のための団体ではなく、あくまでアーティスト自身によって組織され、運営されてきた。その活動の中心には、アーティストの権利の擁護、とりわけ展示や公開に伴う報酬の正当化が据えられている。
カナダの文化政策を考えるうえでしばしば指摘されるのは、同じ北米圏にありながら、アメリカ合衆国とは対照的な制度設計を持っているという点である。アメリカでは、巨大資本に支えられたエンターテインメント産業が文化の中心を占め、市場原理が強く作用している。一方カナダでは、文化を公共財として位置づけ、国家が一定の責任を持って支援するという考え方が比較的強く共有されてきた(例:Canada Council for the Arts https://canadacouncil.ca/)。
助成金制度の整備や、アーティストを一つの職業として認識する社会的合意の存在は、CARFAC-RAAVのガイドラインが実効性を持つための重要な前提条件である。とりわけ、1957年に設立されたCanada Council for the Artsは、芸術支援を国家の恒常的責務として位置づけ、助成金交付の際にアーティストの権利尊重を重視してきた。CARFAC-RAAVの報酬ガイドラインは、こうした文化政策の枠組みと連動することで初めて実効性を獲得しており、報酬ガイドラインはそれ単体で成立しているのではなく、文化政策全体の制度設計のなかで支えられているのである。
CARFAC-RAAVの報酬ガイドラインは、1968年に初めて制定された。1968年は、世界各地で学生運動や市民運動が高揚し、既存の社会構造や不平等に対する批判が噴出した年として知られている。カナダにおいても、アーティストの地位や権利を問い直す動きが、この時期に具体的な形をとった。
その発端となったのは、ロンドン(オンタリオ)を拠点に活動していたアーティスト、ジャック・チェンバース(Jack Chambers, 1931–1978)による新聞広告だったとされている(CARFAC史資料:https://carfac-raav.ca/about/history/)。アーティストの権利を守る団体をアーティスト自身の手で作りたいという呼びかけは、瞬く間に広がり、数年後には連邦議会へのロビー活動にまで発展した。
CARFAC-RAAVの報酬ガイドラインのもう一つの重要な特徴は、その運用方法にある。ガイドラインは、カナダ国内の主要な助成金交付機関との合意のもとで位置づけられており、遵守されない場合には、次年度以降の助成金の見直しや打ち切りがあり得る(ガイドライン概要:https://carfac-raav.ca/fees/)。
また、このガイドラインは毎年改訂されている。物価やインフレ率の変動だけでなく、アーティストの働き方の変化に応じて、報酬の算定方法や区分が細かく見直されてきた。その結果、現在ではA4換算で約100ページに及ぶ長大な文書となっている(art for all による日本語版:https://artforall-jp.org/article/hanako-murakami/guidlinetranslation-ca/)。
近年の改訂の象徴的な例として、オンライン展示への対応が挙げられる。コロナ禍を契機に、オンライン展示は急速に一般化したが、それを従来の物理的な展示と同等に扱うべきかどうかについては、各国で議論が分かれた。
CARFAC-RAAVは、オンライン展示も展覧会の一形態として明確に位置づけ、原則として同等の報酬が支払われるべきであるとした(Fee Schedule内「Online Exhibitions」項目参照)。この判断は、展示の「形式」ではなく、作品が公開され、鑑賞されるという事実そのものに価値を認める姿勢を示している。
CARFAC-RAAVのガイドラインを理解するうえで最も重要なのは、展覧会報酬を「労働の対価」ではなく、「著作権の一種としての展示権(exhibition right)」に対する支払いとして位置づけている点である。この考え方は、1970年代以降のカナダ著作権法改正とも密接に関係している(Copyright Act, R.S.C., 1985)。
作品制作にどれだけの時間がかかったか、どれほどの労力を要したかにかかわらず、その作品を展示・公開する行為そのものに対して報酬が発生するという発想により、制作時間の算定をめぐる多くの問題は回避される。
また、報酬額は展示を行う主催機関の予算規模に応じて設定されている。これは、小規模な団体が現実的に支払える範囲を確保しつつ、大規模な機関が不当に低い報酬で済ませることを防ぐための設計である。この考え方は、1988年および2012年の改正を経て整備されたカナダ著作権法(Copyright Act, R.S.C., 1985)において、展示権が明確に著作者の権利として位置づけられてきた経緯とも対応している。
CARFAC-RAAVの報酬ガイドラインは、日本における議論に多くの示唆を与える一方で、そのまま移植することは困難である。第一に、日本ではアーティストを対象とした恒常的な助成金制度が限定的であり、報酬ガイドラインと助成金を連動させる制度的基盤が弱い。第二に、展示報酬を著作権の一部として捉えるという発想が、美術界全体に十分共有されていない点も大きな課題である。
さらに、アーティスト自身が集合的主体として交渉し、政治や行政と継続的に関わるための組織基盤も、現時点では十分とは言い難い。こうした条件の違いを直視したうえで、日本に適した段階的なガイドラインのあり方を構想する必要がある。
カナダの報酬ガイドラインを、そのまま日本に導入することは現実的ではない。文化政策の枠組み、助成金制度、アーティストの社会的認識はいずれも大きく異なる。しかし、それでもなお、このガイドラインが示している思想と構造は、日本にとって重要な参照点となる。
報酬を善意や裁量に委ねるのではなく、権利として明確に位置づけること、そしてそれを守らせるための仕組みを同時に設計すること。この二点は、日本における報酬ガイドライン策定の議論において、避けて通ることのできない論点である。
CARFAC-RAAVの事務局長ブリツキー氏は、日本に向けて次のような助言をしている。最初から完璧なガイドラインを目指す必要はない。A4で1〜2枚の短いものから始め、改訂を重ねればよい。重要なのは、人数を集め、ユニオン的な連帯を築き、政治とつながることである。そして、必ず生じるバックラッシュに屈しないこと。
この言葉は、日本における報酬ガイドラインの議論が、短期的な成果ではなく、長期的な制度形成のプロセスであることを示している。
村上華子
パリを拠点に活動する現代美術家。東京大学文学部美学芸術学専修課程、東京藝術大学大学院映像研究科修了。写真の起源や視覚の条件を起点に、見ることの行為そのものを、写真・映像・インスタレーションを通じて探究している。近年の主な展示に、広州映像トリエンナーレ(2025)、大邱フォトビエンナーレ(2025)、Nineteenth-Century Photography Now(Getty Museum)など。主なレジデンスに、Villa Albertine、Getty Research Institute、Le Fresnoy(フランス国立現代美術スタジオ)。作品はCNAP(フランス国立造形芸術センター)およびGetty Museumに収蔵されている。また、現代美術家による労働組合「アーティスツ・ユニオン」支部長を務め、「art for all」共同代表として、アーティストを取り巻く制度や環境に関する活動にも携わっている。http://www.hanakomurakami.net