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| 日本では、美術大学の学生の大半を女性が占めているにもかかわらず、教授職や評価の中枢に立つのは依然として男性が多数派である。こうした構造は日本固有の問題ではなく、フランスをはじめとする欧米の美術界にも共通して見られる。本稿では、社会学者マチルド・プロヴァンサルによる著書『Artistes mais femmes』を手がかりに、なぜ女性アーティストがキャリアの途中で徐々に「消えていく」のかを検討する。定量調査と具体的なキャリア追跡に基づいた本書の内容と、筆者自身のアーティストとしての経験を交差させながら、ジェンダー化された評価、ネットワーク、無意識の偏りが生み出す「キャリアの臨界点」を考察する。 |
個人的な経験から話を始めたい。筆者自身、日本で美術大学の大学院を修了したが、在学中に女性アーティストの教員から教わる機会は一度もなかった。学生の大半は女性であったにもかかわらず、である。当時はそのことを特別疑問に思うこともなく、美術教育とはそういうものなのだと、無意識のうちに受け入れていた。
しかし後年になって、この「当然さ」がもたらす影響の大きさに気づかされる。ロールモデルがいないということは、将来像を描くための参照点が欠けているということでもある。それは進路選択や自己評価の場面で、時間をかけてじわじわと効いてくる。
日本の美術界の現状を見れば、その感覚は数値としても裏付けられる。「表現の現場調査団」の報告によれば、美術系学生の男女比は、男性26.5パーセント、女性73.5パーセントと、女性が圧倒的多数である。一方で、学生を指導する教授の割合を見ると、男性教授が80.8パーセント、女性教授は19.2パーセントにすぎない。この数字は、美術教育機関において、教えられる側と教える側のあいだに大きなジェンダー不均衡が存在していることを示している(「ジェンダーバランス白書2022」https://www.hyogen-genba.com/gender)。
この不均衡がもたらす影響は小さくない。ロールモデルに出会えないことに加え、相談相手が男性教員に偏ること、ジェンダーを主題とした作品への理解不足などが重なり、ときに深刻なハラスメントへと発展するケースも報告されている(「表現の現場ハラスメント白書2021」https://www.hyogen-genba.com/qsrsummary)。さらに、美術分野における賞やコンペティションの審査員、過去十年間に美術館で個展を開催した作家、美術館の購入作品の作家構成を見ても、男性作家が圧倒的多数を占めている。日本の美術界には、女性が「多く学び、少なく評価される」構造が、確かに存在している。
この現象は、日本に固有のものではない。フランスにおいても、女性アーティストがキャリアの途中で姿を消していく、いわゆる「蒸発」が確認されている。社会学者マチルド・プロヴァンサルによる『Artistes mais femmes(女性だがアーティストである)』は、この現象を丹念な調査によって可視化した書籍である(https://catalogue-editions.ens-lyon.fr/fr/livre/?GCOI=29021100344730&fa=author&Person_ID=7513)。
本書は、フランスの美術教育におけるエリート校をモデルケースとし、二年にわたり入学面接への同席、在学中の評価過程の観察、卒業後のキャリア追跡を行っている。学校名は伏せられているものの、関係者であれば容易に想像がつくほど具体的な記述がなされている。
調査から浮かび上がるのは、評価やチャンスの配分が決して中立ではないという事実だ。女性アーティストがキャリアを積み上げていく過程で直面する障壁として、本書では主に四つの要因が挙げられている。
第一の要因として本書が挙げるのが、芸術の現場に根強く存在する性別ステレオタイプである。現代美術はしばしば開かれ、進歩的で、既存の規範を問い直す領域として語られるが、その内部では依然として性別に基づく無意識の前提が、作品の評価に影響を及ぼしている。とりわけ不確実性が高く、可視性をめぐる競争が激しい現代美術においては、評価の基準が明文化されないことも相まって、その中にステレオタイプが忍び込みやすくなっている。
その影響は、美術学校への入学選考の段階から現れる。口頭試問を含む選抜過程では、候補者の作品が性別によって異なる枠組みで解釈される傾向が認められた。とりわけ、身体や女性性、フェミニズムを主題とする作品は、「個人的」「感情的」と見なされ、独自性や創造性として評価されにくい。男性が自身の身体性や性衝動を扱った作品が、しばしば「普遍的」なテーマとして受け取られるのとは対照的だ。また、当落線上の候補者について男性の場合「将来性に賭ける」判断がなされやすいのに対し、女性は「救済される」存在として扱われる。この非対称な評価は、最初からキャリアの軌道に差を生み出す。
こうしたステレオタイプは、在学中のアトリエ配属や指導関係、さらには卒業後の支援の有無にも影響を及ぼす。「フェミニンな表現」は普遍性に到達しえないという暗黙の前提が、女性の実験や逸脱を抑制し、教授や仲介者からの後押しを得にくくする。また、学生の労働の分業においても、男性は展示設営や技術的業務といった専門的ネットワークにつながる仕事にアクセスしやすいのに対し、女性の担う仕事は評価や関係資本につながりにくい。こうした構造は、教育機関よりも市場においてさらに強まり、女性アーティストの芸術的・経済的認知を長期的に制約していくのである。
第二の要因として本書が指摘するのが、女性アーティストの性的化、すなわちヘテロセクシュアライゼーションである。これは、女性が作品や実践そのものではなく、身体性や外見、キャラクター、振る舞いといった要素を通して評価されやすい構造を指している。その結果、制作プロセスや思考、理論的な蓄積といった専門的側面が前景化されにくくなり、職業的な評価に疑念が差し挟まれる。
プロヴァンサルは、この性的化がすでに教育段階から作用していることを明らかにする。美術学校への入学選考やアトリエの中で、女性学生はしばしば作品の質よりも「個性」や「雰囲気」、さらには容姿といった要素で語られる。一方で、男性学生は主に技術やコンセプト、将来性といった観点から評価される。こうした選別の結果、一部の女性学生は、後になってから「見た目や魅力で選ばれた存在」と見なされ、純粋に能力を基準に選抜された男性学生と同じ土俵に立てなくなる。作品の質ではなく「美人枠で採用されたのでは」と解釈されることで、彼女たちの達成は過小評価され、専門的能力が不可視化されるのだ。
さらに本書が強調するのは、この性的化が人間関係の質にも深く影響する点である。現代美術の教育現場やプロフェッショナルな世界では、評価や支援が個別的でパーソナルな関係性を通じて行われることが多い。しかし、女性にとって、その「近さ」は常に非性的であるとは限らない。権威を持つ男性教員との関係は、男性学生にとっては有利に働く一方で、女性学生に対しては力関係を不透明にし、専門的な対等性を損なう可能性を孕む。女性アーティストは、関係性の中で誘惑を受け入れれば評価の正当性を疑われ、拒めば支援やネットワークから距離を置かれるという二重の拘束に置かれる。この構造が、女性が自らの仕事を積極的に売り込み、リスクを取ることを難しくしていくのである。
第三の要因として本書が挙げるのが、母性をめぐる根深いステレオタイプである。プロヴァンサルが明らかにするのは、現代美術の世界において「母であること」が、女性アーティストのキャリアにおいて著しく価値を下げる属性として機能しているという現実だ。そしてこのスティグマは、男性にはほとんど適用されない。
女性アーティストのキャリアには、「出産や育児が将来の成功を妨げるのではないか」という警告が、折に触れて差し挟まれる。実際、本書では、教員が「女子学生はいずれ現代美術の世界から離脱する」という前提のもとで、男子学生を優先的に評価・推薦する事例が紹介されている。また、出産を機に女性作家との契約を打ち切ったり、作品のプロモーションを控えたりするギャラリスト、作品購入の前に「今後も本気で制作を続けるつもりがあるのか」を確認するコレクターの存在も報告されている。
重要なのは、ここで問題にされているのが、出産や育児そのものではないという点である。母性は、女性の「コミットメント」や「持続性」を疑うための指標として用いられ、支援や投資を控える合理的な理由として機能してしまう。その結果、女性アーティストは、制作環境や移動可能性、可処分時間の制約に直面する以前に、「将来性のある存在」として見なされにくくなる。
さらに、本書は、親業の不均衡な分担がもたらす影響にも目を向けている。育児やケアの負担が女性に偏ることで、一部の女性アーティストは制作や発表の場から一時的に距離を取らざるを得なくなり、非公式な交流やネットワーキングの場への参加頻度も下がる。レジデンスへの参加や流動的な活動が難しくなる一方で、同じく親である男性アーティストのキャリアやネットワーク形成が、同程度に制限されることはほとんどない。
このように、母性は「個人的な事情」としてではなく、評価・支援・期待の前提条件として制度の内部に組み込まれている。本書が問題にするのは、母であることが女性アーティストの雇用可能性や可視性を静かに、しかし確実に狭めていく、その構造そのものなのである。
第四の要因として挙げられる「社会化の違い」は、性格や資質の問題ではない。本書が描くのは、誰がどのように空間を使い、どのように振る舞うことを許されているのかという、きわめて具体的で身体的な差異である。
アトリエでは、男子学生が大きな作品や道具を広げ、場所を占有する一方、女子学生は無意識のうちに身を小さくし、スペースを譲りながら制作を続ける。これは例えば混雑した電車内で、男性が足を広げ、女性が身体をすぼめる光景とよく似ている。いずれも明文化された規則ではないが、繰り返されることで「当たり前の風景」として定着していく。
こうした差異は、制作環境の質や試行錯誤の量、さらには教員や周囲の視線の集まり方にも影響を与える。重要なのは、それらが一度きりの出来事ではなく、日々の小さな経験の積み重ねであるという点だ。本書がいう「社会化」とは、こうした目立たないが持続的な力の作用にほかならない。
ここで、もう一つ個人的な経験を重ねたい。筆者はフランスで出産を経験したが、それがコロナ明けの頃だったこともあり、個展やグループ展、レジデンスの機会を提案されるタイミングと重なった。それ自体はポジティヴなことだが、活動を継続するためには、保育園、家族、友人、近所の人、有料サービスなど、あらゆるリソースを総動員する必要があった。
そうして、子どもを預け、息も絶え絶えに参加したレセプションの場で、ほぼ必ずかけられる言葉がある。「お子さんは元気?」という問いである。一方で、子どものいる男性アーティストに向けられるのは、「仕事の調子はどう?」という問いだ。
どちらも悪意のない言葉だろう。しかし、こうした問いかけの差が、女性には生活やケアの話題を、男性には仕事や将来性の話題を結びつけていく。その微細な視線の差が、時間をかけてキャリアの軌道に影響を及ぼしていく。
ここで、視点を歴史へと少し引き戻したい。上記のような論点は、美術史家リンダ・ノックリンの論考「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」とも重なり合う(https://artnewsjapan.com/article/799)。ノックリンは、女性が評価されなかった理由を才能の欠如ではなく、制度や文化の構造に見出した。彼女が指摘したのは、女性が長らくヌード・デッサンの訓練を受けられず、正規のアカデミー教育や公的コンクール、留学制度へのアクセスを制限されてきたという歴史的事実である。こうした制約が致命的な差別として意識されることは少ないが、それぞれが重なり合うことで、女性が専門的なキャリアを築く可能性を根本から狭めてきた。 さらにノックリンは、芸術制度が女性に求めた「立ち位置」の問題にも鋭く着目した。歴史的に、女性には「技術的には優れていても、決して男性のように突出した存在になることを期待されない」という無言のルールが課されてきたという。つまり、女性が「上手であること」は許されても、「成功しすぎること」や「抜きんでること」は歓迎されない文化的条件が(芸術分野に限らず)存在したのである。これは、作品の質そのものではなく、社会的に受け入れられる「役割」や「振る舞い」の枠組みがジェンダー化されていたことを示している。
ノックリンはこうした条件の重層的な作用が、女性芸術家が体系的に評価されにくかった歴史的背景をつくり出したと論じる。この歴史的問いは、『Artistes mais femmes』が描き出す現代のフランス美術界の状況と決して無関係ではない。むしろ、歴史的に繰り返されてきた「期待される振る舞いの枠組み」が、現在も別の形で再生産されているという見方が可能になる。
もう一つ、個人的な記憶がある。私の母は美術大学を卒業し、非常に絵が上手い人だった。留学も経験し、若い頃には将来を嘱望されていたと聞いている。だが帰国後、結婚を機に発表の場は徐々に減り、やがて団体展に所属し、男性で年配の「先生」に師事しながら、年に一点作品を出品する、という制作形態に落ち着いていった。だがその制度も独特で、上手いはずなのにピラミッド構造の中ではなかなか評価されず、そのうち面白くなくてやめてしまった。
当時の私は、それを見て「もやもやする」と思いながら、なぜそう感じるのかを説明できずにいた。それは母個人の選択というよりも、女性が専門家として自立し続けるための道が、ほとんど用意されていなかったことの結果だったのではないかと、今では思う。
『Artistes mais femmes』を読み進める中で、母が辿ったその「じわじわと選択肢が狭められていく」道が、例外ではなく、繰り返し再生産されてきた構造の一部であったことが、初めて腑に落ちた。
そういえば、この書籍でモデルとされた美術学校の元教員と本書の内容について話す機会があった。彼は、「男性だから、女性だからといって差別があったとは思わない」と語った。その言葉は、悪意から出たものではないだろう。むしろ、そのように「差別はなかった」と感じられること自体が、アンコンシャス・バイアスの存在を示しているのではないか。意図せず、気づかぬうちに、評価や期待が性別によって異なってしまう。その小さなズレの長年の積み重ねが、結果として女性たちをキャリアの途中でふるい落としていく。
『Artistes mais femmes』は、誰かを断罪するための本ではない。むしろ、私たちが当たり前と信じてきた視線や評価のあり方に、どのような前提が埋め込まれているのかを、社会学の手法で淡々と提示している。調査の中で描かれるのは、露骨な排除の瞬間よりも、面接や講評、推薦、雑談といった日常的なやり取りの積み重ねである。そしてこうした問いは決して新しいものではない。美術史やフェミニズムの文脈では、長く議論され、言葉にされてきた問題でもある。ただ、本書と自分自身の経験を通して、それらが現在進行形の現実として、改めて立ち上がってきた。
女性アーティストがキャリアの途中で姿を消すとき、個々のケースでもちろん事情は異なるだろう。経済的な理由、家庭の事情、制作への迷い——どれも現実的な要因である。だがそれを個人の問題、あるいは「才能」の問題という曖昧な概念の一言で片付けてしまって良いのだろうか。本書が扱う事例の多くは、特別な不幸や極端な差別ではない。むしろ「どこか腑に落ちない」「なぜか声がかからなくなった」というもやもやの積み重ねによって、静かにキャリアの可能性が狭められていく過程である。『Artistes mais femmes』は個々のケースの背後にある構造の問題に光を当てる。
一方で思うのは、ここまで偏った美術分野の構造を少しずつでも開いていくことができれば、もっと多様で、もっと豊かな表現を見ることができるようになるのではないか――その可能性を想像せずにはいられない。
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パリを拠点に活動する現代美術家。東京大学文学部美学芸術学専修課程、東京藝術大学大学院映像研究科修了。写真の起源や視覚の条件を起点に、見ることの行為そのものを、写真・映像・インスタレーションを通じて探究している。近年の主な展示に、広州映像トリエンナーレ(2025)、大邱フォトビエンナーレ(2025)、Nineteenth-Century Photography Now(Getty Museum)など。主なレジデンスに、Villa Albertine、Getty Research Institute、Le Fresnoy(フランス国立現代美術スタジオ)。作品はCNAP(フランス国立造形芸術センター)およびGetty Museumに収蔵されている。また、現代美術家による労働組合「アーティスツ・ユニオン」支部長を務め、「art for all」共同代表として、アーティストを取り巻く制度や環境に関する活動にも携わっている。www.hanakomurakami.net