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差別を作り出す認識の枠組みをめぐって

Text by 渡部宏樹

コラム

2024.3.28

本稿は2024年2月23日にプレカリアートユニオン主催、アーティスツ・ユニオン共催で行われたトークをもとにしています。高校生から大学生以上の読者を想定しています。(art for all)
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差別を作り出す認識の枠組みをめぐって

2023年10月7日のハマースによる攻撃を受けて、イスラエルによるガザ侵攻と虐殺が始まりました。その後、「イスラエルのジェノサイドを見て、同じことが日本で起きるかもしれないと思うと不安だ」というアイヌの方がいるということを伝聞で聞きました。日本国内にいる多くの人は「日本で虐殺など起こるわけがない」と考えているでしょうから、この不安はすべての人がすぐに共有できることではないとは思います。しかし、かつて関東大震災のときには流言卑語によって朝鮮人が虐殺され、現在でも震災の際には中国人の窃盗団がやってくるという真偽不明の噂が流れ、クルド人の不法行為なるものが喧伝されており、日本社会が虐殺の何歩か手前のところにあると言えるでしょう。マイノリティーが不安を抱くことはもっともだと思います。

今回は、イスラエルの虐殺という個別の出来事の話ではなく、その虐殺につながるマイノリティーに不安を抱かせる差別を作り出す認識の枠組みについて考えてみたいと思います。特に、そうした構造が地理的に遠い外国だけでなく、現代の日本の中にも存在していることをお話しします。

そのために、社会学の中で使われている本質主義と構築主義という概念を使用しますので、まずはこれらを簡単に説明します。本質主義とは、物事にはそれ自体に内在したその物事を規定する客観的な特性があるという考え方です。「本質」は英語で「エッセンス(essence)」と言います。製菓に使うバニラエッセンスを思い浮かべる人は多いでしょう。バニラエッセンスはバニラという植物から抽出した香りを凝縮した液体です。比喩的な説明をすると、この抽出液の中に凝縮されている濃厚な香りをバニラという植物の本質として見出すという認識のあり方が本質主義と呼ばれます。

この本質主義を批判するのが構築主義という考え方です。物事自体に本質があるわけではなく、私たちの認識が物事のあり方を作り出しているという発想です。わかりやすい例としては、虹の色の数が挙げられます。虹とは、太陽光の可視光線が空気中の水分を通過した時に、波長ごとに分光したもの(スペクトラム)が連続的に見えたものです。この科学的事実自体は普遍的なものです。しかし、「虹の中に色はいくつあるか?」と聞かれた時の回答は、文化圏によって異なります。日本の場合は7色と答えることが多いのですが、英語圏では6色ですし、他の言語文化圏では異なる色の数になります。つまり同一の自然現象であっても、文化や社会によって異なる色の数で認識されているのです。このような認識によって現実の捉え方が作り出されるという立場を構築主義と呼びます。

この本質主義と構築主義という観点から、国家や国籍、人種、生物学的性差セックスというものが本質を持っているのか、あるいは私たちの認識の中で構築されているものなのかを順番に検討します。その上で最後に、イスラエルの虐殺という具体的な政治問題を考えるのになぜこんな複雑な話をする必要があるのか、そしてこの話がアートとどのように関わるかを考えてみます。

1 国家や国籍は社会構築的か?
みなさんは、国家というものが科学的な根拠がなくて社会構築的だと言われた時に、そのことを受け入れられるでしょうか?もう少し具体化すると、あなたが日本人なのは、日本人としての本質を持っているわけではなく、単に日本国という制度に所属しているだけですと言われたらどう思いますか?

二重国籍をもっている人や、外国で生まれて移住先の国で帰化した人というのはめずらしくありません。したがって、国家や国籍が人為的に構築された制度だというのは理解しやすいと思います。「自分は日本人以外の何者でもありえない」と思う人はある程度いるでしょう。しかし歴史的に考えると、日本人という本質が通史的に存在するわけではないことは明らかです。例えば、「日本人という概念が一般に普及したのはいつか?」という質問を学生によくするのですが、標準的な回答は「明治維新後」になると思います。明治維新によって国民国家を作ることになり、近代天皇制や教育制度を整備し、人々に日本人であるという意識を植え付けました。明治維新以前の江戸時代には、それぞれの村や藩に帰属意識を持つ者が大半で、自分が日本人であるという意識はあまり存在していませんでした。

このように考えると、バニラエッセンスの液体がどこをとっても同じ成分からできているように、ある国籍の人間がみな共通の特性を持っているという考えは、現実には存在しないフィクションであることがわかります。例えば、スペインの中にバスク人がいて、彼らはパスポート上はスペイン人だけれども、スペイン人とは異なるバスク人としてのアイデンティティを持っています。同じような例は日本の中の、韓国系、中国系、沖縄系、アイヌ系の人にも言えるでしょう。

フランス政府でいくつかの大臣職を歴任した政治家フルール・ペルランがよい例になるでしょう。彼女の外見は東アジア系の特徴をもっており、典型的に想像されるフランス人とは異なるものです。というのも、彼女は韓国で生まれ、生後6ヶ月でフランス人のもとに養子縁組されて、フランスで育ち教育を受けました。ペルランの例が示すように、国家や国籍は人為的な制度なので、そこに属する人間全てになんらかの共通する本質を想定することはできません。

国家や国籍という制度の人為性・構築性を確認すると、これらの制度の下で違法とされているものの妥当性を再検討できるようになります。領域国家は国境線を引き、国家が指定する手続きを取らずその国境線をまたぐと不法入国とされます。しかし、これは国家や国籍という制度の側の都合で国境線が引かれているだけで、基本的人権の一つである移動の自由を最大限尊重するという観点からは、国境を勝手に越えることは重大な犯罪ではないという立場もあり得ます。

もちろん、本当にすべての人が国境を超えて自由に移動したら経済や社会保障制度が大混乱に陥るという反論はあり得て、それは事実だと思います。しかし、だとしたら、必要なのはたまたまあるシステムの中に生まれたかどうかで経済的処遇が大きく異なるという不平等を、仮にすぐには解決できないとしても、長期的に解決に向けて取り組むことです。現実には、そのような取り組みよりも、ウィシュマ・サンダマリさんが殺されたことや日本の入管制度に明らかなように、「不法に国境を超えた人」を懲罰的かつ非人道的に扱うことが目立ちます。

このように国家や国籍というものが社会的な構築物であるということを再確認することで、これら構築された制度のもとでの善悪というものを問い直すことが可能になります。この観点から次は人種について考えてみましょう。

2 人種は社会構築的か?
白人、黒人、黄色人種といった人種の区別も科学的に説明できるものではなくて、社会構築的だと言われて受け入れられますか? 例えば、あなたは黄色人種ではなく、白人、黒人、黄色人種という社会構築的なカテゴリーでそう分類されているだけだと言われて納得できるでしょうか?

私たちは人種についてのステレオタイプ(偏見、思い込み)を持っています。例えば、黒人は足が速くて運動能力が高くダンスがとても上手いというようなものです。当たり前のことですが、全ての黒人の運動能力が高いわけではなく個人差があります。逆に、北米では東アジア系はみな数学が得意というステレオタイプが定着していますが、みなさんも全員が数学を得意とするわけではないでしょう。「個人差はあるかもしれないが、平均的にはそういう傾向があるのではないか?」という反論はあるかもしれません。しかし、仮に人種ごとに平均的な能力を計算してそこに差があったとしても、それが生得的なものなのか文化や社会によって事後的に獲得したものかは検討する必要があります。にもかかわらず、肌の色に結びつけて、その肌の色の人間はみなある特定の本質を持っていると考えるのは思い込みです。

最初の質問で、白人、黒人、黄色人種という言葉を使いましたが、実はこの人種の区分け自体も歴史的に変化していて、虹の色の数のように、文化や社会によって恣意的に決められてきたことがわかっています。[1]
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[1] 河合優子『日本の人種主義:トランスナショナルな視点からの入門書』青弓社、2023年、17-49頁。

例えば18世紀の分類学者リンネは人種をアメリカ人、アジア人、アフリカ人、ヨーロッパ人に4分類しました。19世紀のブルーメンバッハはリンネの分類を改良して、コーカサス人、モンゴル人、エチオピア人、アメリカ人、マレー人の5分類を生み出しましたが、その時の基準は頭蓋骨の形です。コーカサスというのは東ヨーロッパの地名ですが、この地域の人たちの頭蓋骨の形が一番美しいことから名前が取られ、英語で白人を意味する「コーケイジアン」はこれに由来します。[2]
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[2] 同、30頁。

その後、フランスの博物学者キュヴィエが肌の色に注目して、コーカサス人を白人、エチオピア人を黒人、モンゴル人を黄色人種とする3分類を提唱しました。これが今の一般的な分類の枠組みになっています。[3]従って、人体のどの部分に注目するかによって人種の分類の基準や境界線は簡単に揺れ動いており、肌の色に特権的に注目することは決して科学的根拠があるわけではないのです。
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[3] 同、31頁。

わかりやすくいうと、血液型性格診断が科学的ではないことと同様です。人間というのはさまざまな要素が複雑に絡み合ってできていますが、その中のある単一の要素、この場合は血液中の赤血球の型のその中でもさらにABOで分類される部分だけが、人の性格を決定していると考えるのは無理があります。仮にABO式の赤血球の分類が人間の性格のなんらかの部分を説明するとしても、例えば頭蓋骨の形のような他の基準を持ってくれば、それに従ってまた別の分類が可能になります。従って、ある一つの生物学的基準で人間を分類しきることはできません。

また、肌の色が何色かという判断自体も歴史的に変化してきており、これはアメリカ合衆国における白人や黒人の境界線をみると明らかです。アメリカに早くから入植したWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)は、20世紀初頭に移民としてやってきたカトリックでラテン系のイタリア人やポルトガル人たちを十分に白人ではないとして差別していました。その影響もあり、差別された人々が同郷出身者同士で助け合ったところから、映画『ゴットファーザー』シリーズで描かれるアメリカのマフィアが生まれました。

一方、黒人の境界も揺れ動いています。南北戦争後のアメリカ社会で、奴隷は解放されたものの差別意識が残っていました。白人と黒人を分けたいという欲望があり、1滴でも黒人の血が混じっている場合は黒人とするという一滴規定ワン・ドロップ・ルールが存在していました。[4]例えばある1人の人間には祖父母が4人いますが、4人のうち一人だけが黒人でも、その孫は黒人とみなされました。さらに世代を遡って、8人や16人の祖先のうちたった1人だけが黒人で他は全員白人であったとしても、黒人として扱われていました。仮に白人、黒人という区別が本質として存在することを認める立場に立ったとしても、一滴規定ワン・ドロップ・ルールがとても恣意的であることは明らかでしょう。
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[4] 同、88-91頁。

今、「仮に」と言いましたが、人種が社会構築的であると考えれば、純粋な人種というものは存在しないことになります。[5]純粋な白人や黒人は存在しないというとびっくりする方もいるかもしれませんが、人類史の中で人間がさまざまに移動し、その過程で異なるグループ間で遺伝情報の交換が行われてきたことは明らかにされています。そもそも、人類はみんなアフリカ大陸で生まれ世界各地に伝播したものです。地域への適応によって一定の傾向の遺伝的特性を持った人の割合が高くなるということはあります。しかし、肌の色やなんらかの外から観察できる特性によって人間を分類できるように見えるとしても、外見に現れないものも含めて遺伝情報を検討すると、集団間の差よりも個人間の差のほうが大きいことがわかっています。従って、遺伝学的には人種というものは存在しないというのが最近の常識のようです。
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[5] 白人の純粋性を証明しようとして遺伝子検査がブームとなったことについては次の記事を参照。標葉隆馬「アメリカの白人至上主義者の間で、遺伝子検査がブームになってる驚きの理由」『現代ビジネス』2020年11月19日、https://gendai.media/articles/-/77043?imp=0。

実際、今は高校の教科書でも人種が科学的でないことは明示されています。以下の図は、伊藤千尋が高校の地理の教科書における人種についての記述をまとめたものです。[6]すべての教科書がというわけではないのですが、多くの教科書が人種というものが科学的な根拠がないことや植民地支配を正当化するために利用されてきたことを明確に記しています。
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[6] 伊藤千尋「高校地理教科書における人種に関する記述の問題点:差別で偏見を生まない教育に向けて」『E-Journal GEO』2021 年 、16 巻 2 号、327-344頁。https://doi.org/10.4157/ejgeo.16.327


*伊藤千尋「高校地理教科書における人種に関する記述の問題点:差別で偏見を生まない教育に向けて」『E-Journal GEO』2021 年 、16 巻 2 号、333頁より。

しかし、遺伝学的に人種が存在しないとしても、現に人種に基づいた差別は存在するわけで、その事実をどう説明するのかという疑問を持たれる方もいるでしょう。この点について、磯直樹は「「人種」があるのではなく、それがあるように信じさせるレイシズムがある」というイギリスの社会学者ロバート・マイルズの言葉を紹介した上で次のように述べています。

「人種」はないにもかかわらず、どうしてそれが確固としてあるように思えてしまうのか。レイシズムに反対する側も、どうして「人種的平等」などと唱えて「人種」を実体化してしまうのか。ないものをあると思い込んでいる私たちの思考枠組み、さらには社会的現実こそが問われなければならない。[7]
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[7] 磯直樹「『人種は存在しない、あるのはレイシズムだ』という重要な考え方」『現代ビジネス』2020年6月20日、https://gendai.media/articles/-/73415?imp=0。

本稿の最初に説明した用語を使って言い換えると、科学的区分として人種が本質主義的に存在しないとしても、社会構築的な認識の効果として人種というものが実体化されてしまうと言えるでしょう。磯の記述の中の「ないものをあると思い込んでいる私たちの思考枠組み」こそ、本稿の強調したい点で、これは次のトピックである生物学的性差セックスでも重要なポイントとなります。

3 生物学的性差セックスは社会構築的か?
生物学的性差セックスは生物学的現実に強く根ざしているように見えますが、これも社会構築的だと言われたらどうでしょうか?社会的・文化的性性差ジェンダーが社会構築的というところまでは納得できても、生物学的性差セックスまで社会構築的だというのは科学的ではないと思いますか?

一般的には、性には生物学的性差セックスと社会的・文化的性性差ジェンダーがあり、それぞれ確固として男女に二分されるという説明が受け入れられているかと思います。私の場合は20年以上前に大学に入学した時にそのように学んだ記憶があります。ですが、この「確固として男女に二分される」という考え方は更新されています。[8]生まれた時に割り当てられた性と自分のジェンダー自認が異なるトランスジェンダーという言葉は徐々に認知されるようになってきましたが、それとは別に、男女という二元論的な規範を内面化していないノンバイナリーと呼ばれる人も存在します。バイナリーとは0と1のような二元論的なコードのことを指します。ノンバイナリーとは男女というバイナリーのどちらにも属さないという自己認識の人のことです。
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[8] トランスジェンダーの基本的理解については、周司あきら、高井ゆとり『トランスジェンダー入門』集英社、2023年の「第1章 トランスジェンダーとは?」(13-39頁)を参照。同章は「心の性」と「身体の性」という二分法の問題点も言及している。

トランスジェンダーにしてもノンバイナリーにしても、重要なのは当事者の自己認識であるということです。つまり、当事者の体の状態がどうであれ、自身についてどう認識しているかが彼らの社会的・文化的性性差ジェンダーを決定するということです。このように説明すると、「社会的・文化的性性差ジェンダーが自己認識に基づいて二元論におさまらないとしても、生物学的性差セックスは確固とした男女二元論的世界なんだな」と思われる方がいるかもしれません。私も最近までそういう理解をしていたのですが、現実は複雑なことがわかってきました。この議論をもう一歩先に進めるために、キャスター・セメンヤ選手の事例を紹介しましょう。

キャスター・セメンヤ選手は南アフリカ共和国出身の女子の陸上競技選手です。生まれた時に男性器を持っていなかったので、女性として育てられました。セメンヤ選手の性自認は女性ですが、10代の頃から筋肉質な体つきであったため検査を行ったところ、子宮と卵巣はなく、XYの染色体を持ち精巣が体内にあることがわかりました。テストステロンも男性並みで、国際陸上競技連盟の規定でテストステロン値が高い女性の出場資格が制限されているため、彼女が競技に出るためには薬を飲んでテストステロン値を下げる必要がありました。

このことをどう考えるかですが、セメンヤ選手は「男性になり損なった女性」と考えていいのでしょうか? 生物学的性差セックスが男女のバイナリーであるという規範で考えると、このセメンヤ選手の例は例外的なものであり、医学的には治療すべき疾患として理解されてしまいます。しかし、そのような理解は、セメンヤ選手本人にとってひどい侮辱ではないでしょうか?彼女にとっては男性器も子宮も卵巣も持たずしかし精巣を持った身体に生まれ、女性としていう自己認識を持ったことが生きている自然な現実です。その状況で、「あなたは精巣があってテストステロン値が高いのでホルモン治療してください」というのは、彼女の自然なあり方を肯定したものではなく、私たちの生物学的性差セックスは男女のバイナリーだという思い込みを維持するために彼女の身体に介入する行為になります。このように考えると、真に更新が必要なのは、磯が言うところの「ないものをあると思い込んでいる私たちの思考枠組み」の方ではないでしょうか?

人種が社会構築的であると話したところで、いろんな生物学的要素がモザイク状に絡み合って人間が出来上がっていると説明しましたが、このことは生物学的性差セックスについても適用できます。染色体がどんな組み合わせか、外性器の形状がどうか、どんな内性器をもっているか、ホルモンの値はどうかといった様々な要素が組み合わさってできてるのが私たちの性的身体です。[9]実際には生物学的性差セックスというものは虹の色が段階的に変化するようにスペクトラム状に広がっているのですが、典型的な男女という二元論的枠組みによってスペクトラムの微細な差異を認識できなくなってしまっているのです。
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[9] Claire Ainsworth「揺れる性別の境界」船田晶子訳『Natureダイジェスト』Vol. 12 No. 5。DOI: 10.1038/ndigest.2015.1505248

4 なぜ社会構築主義の話がイスラエルのガザ侵攻と関わるのか?
なぜイスラエルの虐殺や、さらには日本との関係の話をするのに、こんな面倒くさい話をするのでしょうか?それは、人間がこうした複雑さに耐えることが難しいということを考えてほしいからです。本質主義は私たちの認知コストを下げてくれます。国籍や人種や生物学的性差セックスが実際は社会構築的だとしても、それが実体として存在すると本質主義的に考えると、私たちが複雑な現実に対処する労力を節約できてしまいます。

具体的に言うと、例えば、日本の街中でフルール・ペルランがお腹を痛そうにしてうずくまっているのを見つけたら、多くの人は日本語で「大丈夫ですか」と話しかけると思います。どうやら日本語を解さないとわかったら、次の選択肢は韓国語か中国語で話しかけることになると思います。これがフルール・ペルランではなく白人の外見であれば、使用言語の判断は異なっていたと思います。ですが、やはり外見から何語が通用するかの蓋然性を考えると、このような判断を私たちはしてしまいます。この架空の例自体が即差別的なわけではありませんが、典型を想定した振る舞いを繰り返すときに節約された認知コストの皺寄せが、非典型的な性質を持った人々に押し付けられるのも事実です。

国籍も人種も生物学的性差セックスも社会構築的であるとしても、「ないものをあると思い込んでいる私たちの思考枠組み」がこれらを実体化してしまうと、私たちがそこから逃れるのは容易ではありません。特に生物学的性差セックスについてはホルモンが私たちの心理にも強い影響を与えるので、なかなか社会構築的に捉え直すというのは難しいことだと思います。個々の人間が持っているモザイク状の複雑さを常に認識しようと思うと、とんでもない認知コストが必要になってしまうというのも事実だと思います。

ここで私が強調したいのは、人間がこの認知コストに耐えられないという弱点が制度的に突かれてしまうということです。イスラエルが現に行い大日本帝国がかつて北海道で行った入植植民地主義セトラー・コロニアリズムと手を結んで、本質主義的認識は私たちの世界の理解に介入します。

例えば、イスラエル国防相はパレスチナの人々を「人畜(human animals)」と呼び、ネタニヤフ首相は10月7日以降の侵攻で殺害された3万人以上のパレスチナ人のうち1万3千人のテロリストが含まれていると言ったレトリックを駆使しています。これはパレスチナ人を非人間化し、具体的な個別性や複雑さを完全に無視することで、すべてのパレスチナ人が本質的に悪者であるかのような印象を与えようとするものです。日本にいるとあまりにも荒唐無稽だと思うのですが、同じようなレトリックは日本社会の中でも数多くみられます。例えば、「そんなひどいことをするのは朝鮮人/中国人に違いない」といった言説はよくみますし、「日本の○○がすごい!」とか「世界中が褒める日本!」といったテレビ番組も他者の非人間化を反転し、国籍や人種を本質化したものです。

ここまであからさまなものではなくとも、「育ちのいい人だけが知っている習慣」といった本質主義的レトリックがビジネスと結合した書籍も日々目にするものです。本質主義化し認知コストを下げることで私たちの認識に介入する点では、イスラエルのプロパガンダもこうしたビジネス上の宣伝文句も構造上は同じものです。こうした単純化された二元論的発想の行き着く先が「邪悪な他者と善良な我々」というレトリックになります。このように考えると、本稿の冒頭で紹介したアイヌの人が「イスラエルがやっていることと同じことが日本でも起きるかもしれない」という不安も理解できるでしょう。

アイヌに対して、例えば「自然と共生する豊かな文化を持ち、独特の文様や緻密な細工の工芸品を作った民族である」という認識を持っていたとしても、これ自体が本質主義的で差別的な要素を孕んでいます。なぜかと言うと、この認識はアイヌの人が現在持っている複雑さを縮減し、アイヌを自然と共生する過去の少数民族という単純化された本質に押し込めてしまうからです。このような本質に押し込めることで、日本社会の中で普通に労働者や生活者として生きているアイヌの現実を不可視化してしまいます。[10]差別というものは他者を本質主義的に規定して、現実の複雑さを覆い隠してしまうところから始まるものであり、この意味で、善意からであってもアイヌをある特定の本質に押し込めることの延長線上に、イスラエルの虐殺が存在しています。
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[10] この点については次の論考も参照のこと。渡部宏樹「文化は魅せなければならないのか?:「ウポポイ(民族共生象徴空間)」について」2020年10月31日。https://note.com/watabe_kohki/n/na72e562b068a

5 なぜこの話がアートと関わるのか?
ではなぜこんな複雑なことをアーティストをはじめとした芸術に従事するみなさんに向けて話しているのでしょうか? それはアートというものが記号やイメージの操作を通して「ないものをあると思い込んでいる私たちの思考枠組み」に働きかける営みだからです。本稿は社会学の中で使われる本質主義と構築主義という概念を利用して同じような揺さぶりをかけてみようとしたもので、ある程度わかりやすく説明はできたと思います。

ですが、それはそれとして、今回の話は、一人一人の生の現実の固有性とその捉え難い手触りという部分までは届いていないなと思います。東アジアの言語で話しかけられるたびにフルール・ペルランが感じているものが、フランス人としての彼女の生にどのような影響を与えているのか、あるいはいないのか。精巣が生み出す男性ホルモンがキャスター・セメンヤの女性としての生にどのような起伏を刻んでいるのか、あるいはいないのか。そうしたことの本当のところは、容易には想像できません。

虹は科学的現象としては可視光のスペクトラムで、いくつの色数で分節するかは文化や言語によって異なるという理解はすっきりとした見取り図を提示してくれますが、私たちの実際の生は、それらの間の葛藤や交渉の結果として成立しているものなのだと思います。虐殺を生み出すような差別的な認識に陥らないためには、その容易には理解が及ばない複雑な他者の現実をこそ、それを知りたいという欲望自体に危うさがあると思いつつも、しかし、アートや文学といったなんらかの形で、その理解の難しさの片鱗に触れることが必要なのではないかと思います。

プロフィール
渡部宏樹
筑波大学人社系助教。南カリフォルニア大学映画芸術研究科にて映画メディア研究の博士号取得。博士論文では第二次世界大戦前の日系アメリカ人の映画を中心とする文化史を研究。資本主義社会における文化と芸術について、特にその受容者側(観客/消費者/ユーザー/市民)に注目して研究をしている。