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能登の自然とともにある暮らしの美しさと、生産性について

Text by 義岡翼

what’s on コラム

2025.3.21

別れ際の「ようこそようこそ」

令和6年能登半島地震後の4月から今年1月まで、毎月1週間~10日間ほど輪島市門前町でボランティア活動をしていた。東北から通っているためそれ以上長期の滞在は難しい。それでも地域の方はわたしの名前や顔を覚えてくれて、声をかけてくれる方もいる。
わたしは、能登の人や暮らしの美しさが大好きだ。北陸は晴れの日が少ないというけど、春から夏は結構な真夏日もあった。あたたかい時期の海はだいたい穏やかなのに、11月の終わりから急に荒れる。能登の自然は激しい。すごい勢いであられが降ったと思ったら大雨、そして突然やむ。気候が激しいほど、自然の恵みにあふれているし、地域の人たちはそれを十分理解していて、季節の野菜を育て分け合い、海や山に出かける。

海苔を干す前に何度も洗う

船に乗るような漁師でなくても海に出て、岩場の間にコンクリートで平らにならした海苔畑で海苔を収穫する(これは地震で隆起してしまい今年は天然の岩場で収穫している)。乾燥小屋などで四角く整形し干す。ところてんによく似た「エゴ」もよくいただいた。家庭によって舌ざわりや味が違う。

エゴを干している様子。ここからも長い行程が待っている。

どれもとてつもない時間と労力をかけている。こんな天然の原料で、しかも時給換算したらとんでもない金額になる高級品だ。でも、自然界から奪いすぎることはせず、わけあい、淡々とこの地域の暮らしを繰り返す。
印象的な方言は「ちょっこり(すこし)畑いじったりね」「はや(もはや)どうすることもできんわ」「今日は、はかいったね~(はかどったね)」など。でも、よそ者からすると一番うれしいのは、別れ際の「ようこそようこそ」。
そりゃ、災害ボランティアに来た人たちには、「来てくれてありがとう」と声をかけてくれるのは、自然だと思う。たとえ本人の現状が変わっていなくとも。
でも別れ際、これから一切会わないかもしれない人に対して「ようこそようこそ」。はじめも同様のことを言ってくれるのだけど、去り際のほうがより強く「本当よく来てくれたね(意訳)」と伝えてくれる。余韻を残すかのように。そんな言葉は、ボランティアのやりがいを100%にしてくれる力を秘めている。
しかし、当然、大変な被災を経験したけど、無理やり元気そうに振る舞う方もいる。冗談を飛ばしながら、ボランティアを歓迎してくれながらも、住人の多くが70代~80代という地域。今、笑顔で話しているけど、仮設住宅にひとりいるとき、どんな表情をしているのだろうと、胸がつまる。
自然豊かで、ご先祖から伝わる暮らしが根付いている能登地域は、「超高齢社会」「過疎地域」とも表現される。わたしたちの生きている社会を維持するためには、元気な世代が貨幣経済を右肩上がりに発展させることが必要というのが、一般的な考え方。では、生産世代が極端に少ない地域は、どう立ち直ればいいのか。
生産性や効率とはかけ離れているけど、とても豊かな暮らしがここにある。公費解体や「復興」とともに、この地域の文化や営みがまっさらに消えてしまわないかと、危惧している。

目に見えないものを大事にする心

普段、福島で震災の経験や、もともとあった地域の記憶を残す活動をしている。本格的な活動は発災から約10年後からはじめた。原発事故による避難生活で物理的な距離があり、予定をあわせてお話しを聞かせていただくことになる。なんとなく、ご本人にも「ためになる話をしなきゃ」と身構えてさせてしまう気がしている。
そんな中はじめた能登へのボランティア通い。被災家屋の片付けや、9/21の水害後からは泥だし作業など、日々汗をかく仕事が多かった。住人から自然と語られることから印象にのこっているエピソードを紹介する。

白くなっている岩場は隆起した跡。この地域は隆起したから津波が来なかったと、地元の人は語る。

家具の搬出はほぼご自身で済ませ、畳の搬出だけ手伝ってほしいと地元の漁師さんに頼まれた。80歳目前の男性がものすごい速いペースで畳を運ぶので、自分も汗だくになりながら手伝った。「ちょっと休憩しましょうよ」と何度声をかけても、満面の笑みで手を止めない。すると作業後、超さわやかな笑顔で「お嬢さん、すごいパワーやったから、ついていくの大変やったわ~」と驚愕の言葉。(後日知ったのだが、彼は耳がすごく遠くて、休憩の声かけが全く聞こえていなかったよう)。
当時、海岸が地震で隆起したため船が出せずにいた。再開するためには漁港の海底を掘る工事が必要となる。その漁港の掘削工事が実施されるかどうかは、まだ発表されていなかった。生業としての漁師ではないこともあり、半ばあきらめの様子。これからは畑に精を出すと言いつつ、「リニアつくるより海底掘ってほしい」と切実な願いもこぼしていた。
この地域は、(もっと昔をたどれば北前船だが)高度経済成長期には外国航路の船員をしていた方が多い。今70代以上の男性の多くは、船乗り(「商船乗り」とも言う)として1年のほとんどを海上で過ごす人たちだった。お家の片付けをしているときに、ウミガメの剥製とか、とにかく大きい置物など、海外で手に入れたものが出てきたりする。
彼も漁師をする前は船乗りをしていた。でも40代で辞めた。その理由は、「人生を海に捨ててるようなものだと思ったから」。家族や子どもが家にいるのに、船乗りは1年近く海の上にいることになる。その「人生を海に捨てる」という表現が素敵だなと感じた。昨年、80歳の誕生日を迎えられた翌日にばったり会った。「この日を楽しみにしてたんですよ!80代は未知の世界ですからねぇ」とキラキラした目で話してくださった。
その後、漁港では海底工事が行われた。シケが落ち着く2月か3月に、きっとまた彼は船を出しはじめるだろう。

地震から約4か月、まだ片付けが手つかずの部屋があるからと頼まれて伺ったお宅でのこと。奥さんに「どこが優先順位高いですか?」と聞くと、遠慮がちに「仏壇が台座から2~3㎝ずれていて心配」という言葉が返ってきた。正直、生活にかかわる空間で片付けたほうが良さそうなところは他にあったが、確かに、この地域では仏壇や神棚などをいち早く直したいというニーズは多いと聞いていた。ご先祖様を大事にしているからこそ、お家も仏壇もとてもとても大事にされている。ふと、奥さんが「子どもが早く亡くなったからね」とぽつりと言った。「ちょっとでも余震があったら倒れそうで怖いから、目の前に毛布敷いてるの」。心なしか、心労がたまっているような顔つきだったので心配だったが、その後、力持ちボランティアが何人かで訪問し、仏壇のずれは無事に解消された。
このようなぽつりと本音や切実な声を聞かせてくれることが、ボランティアにとっても多くの気づきを与えてくれている。誰かに話すことで、被災された方の心が少しでも軽くなっていたらと、強く思う。

あるお宅の寝室。ガラス窓がついている本棚がベッドに倒れている。

固定概念や一般的な考えにとらわれず、本人が大切にしていることは何か考えながら、目に見えない想いもたくさん想像しながらの支援。でも、これは復旧期のボランティアだからできること。これから復興期に移っていく中で、色んなものと天秤にかけ、様々な場面で諦め、後ろ向きな人生を送ることにならないよう、願うばかりだ。

「銀河鉄道の夜みたいな墓よみ」という劇をしたこと

劇をした福島の旧石材工場。

2年ほど前、福島のある石材店の旧工場をつかって劇をした。その工場はしばらく使われておらず、近い内に解体が決まっていた。石材店なので墓石や灯篭などを扱っており、工場の中には御影石がたくさん。脚本の題材をどうするか考えていたとき、友人が「墓読み(著:シオドア・スタージョン)」という小説をすすめてくれて、アレンジして短い劇をつくった。劇中で印象にのこっているセリフがある。
※他界した父と折り合いをつけられない「私」に対し、「墓を読む」ことができる「男」が発した言葉。
「つまり、生きている人間は完結していないんです。これまでの人生で接触してきたものすべて、抱いてきた考えすべて、今も生きている者たちの中で作用している。なにひとつ、完結していない」
これは場所やものに対しても、近いことが言えると思っている。一般的には、土地も建物も所有する者の「財産」として、様々な場面で違和感なくわたしたちは受け入れている。持ち主の意思と金銭面が成立すれば、解体もできるし、新しく建物を建てることもできるし、売却することもできる。当然、この世に存在しない先祖や土地の声に了解を得る必要はない。現代に生きていると、命や土地の連続性を感じることは自分を含め、非常に難しくなっていると感じる。

水害に見舞われた畑から生き延びていた大根。間引き作業を手伝い、おいしくいただいた。

能登の人たちと作業をしたり、お話しを聞いていたりすると、自分ひとりでは「完結していない」ことが少し理解できる気がする。天気や波の高さを見ながら「今日は行ける」という日に岩場や浜に出かけ、貝や海藻や海苔を収穫する。山には、山菜だけでなく山奥に植えた柑橘を収穫したりする。季節の移り変わりとともにある暮らし。当然体力仕事だが、80歳代の方も現役だ。お宅の庭に植えてある大きな果樹の木を見ながら、「食べ物に困らないように、何代か前の人が植えてくれたんや」という話も聞いた。お宅の中は、家の中を見渡せる場所に仏壇がある。壁には先祖代々の写真が並ぶ。
「これまでの人生で接触してきたものすべて、抱いてきた考えすべて、今も生きている者たちの中で作用している。なにひとつ、完結していない」という言葉に対して、「そんなの当たり前だ」と答える人は、ひと昔前であれば、どの地域でも多かったのではないだろうか。しかし今、貨幣経済を率先して支え、スーパーに横たわる野菜や肉を買い求める暮らしで、「形として存在しない物事が自分の中で作用している」感覚を理解するのは難しい。
当たり前を忘れ去り、次第に目に見えるものしか信じなくなり、我々はどこへ向かっていくのだろう。

生産世代という言葉との出会い

わたしは社会人になってから、地域生活をしている障害のある方の介護をしていた。働きはじめたころに、知人の誘いであるセミナーに参加した。そこではじめて「生産世代」という言葉を知った。
「働きたいけど自分ができる仕事がない」「自分も誰かの役にたちたい」と吐露する利用者さんにたくさん出会ってきた。生産できる人材や世代ではない人たちが、望んでいないのに支援される側になり、社会から「重荷」扱いされる構造をありありと見せつけられたような気がした。生産世代や生産性という言葉がすごく嫌いだった。とはいえ、生産世代として福祉サービスを提供し、税金が報酬として事業所に入り、自分の給料になっていたわけだから、きれいごとだということもわかる。
能登半島地震の被災地にボランティアで通うようになり、再び「生産世代」や「生産性」という言葉にぶち当たっている。わたしが滞在する地域は、70歳代が若手と言われるくらい、高齢者が多くを占めている。

地震と水害により集落内の道路のアスファルトが崩れ、マンホールがあらわになっている。

地震後、仮設住宅から畑まで徒歩で通っていた90歳のおばあちゃんとのやり取りを紹介する。その距離は車でだいたい10分なので、徒歩だと40~50分。彼女のお元気さには圧倒される。でも、9月の水害により畑はだめになり「水害のあとは見に行ってない」ので、長距離のウォーキングもしていない。そうか、こうやって外に出る機会は減っていくのか、と感じる。
浸水したお宅の片付けに入ったとき、「罹災証明はどうだったのか」「自宅は解体するか」確認したことがあった。(こういう話題は普段あまり進んで聞かないが、その後のボランティアの進め方に影響するので、様子をみて確認する)。すると、投げやりに「“半壊”にしたんや」という言葉。ボランティア活動中に聞いた、「これは(自分が死んだときの)葬式のときに使うため用意したお皿」「でもなかなかお迎えが来ない」など、色んなやり取りを総じて考えると、「まわりの人たちの面倒をかけないために解体を決めた」という意味だろうと理解している。
もちろん、資金面や家族との話し合いなど、100%の納得感で「解体」か「保存」か決められる人はほぼいないだろう。でも、この90歳のおばあちゃんに限らず、同様に揺れ動きつづける住人の姿を何度も見てきた。

残りの人生を逆算する

地域の神社に保存されている北前船時代の絵馬。

前述した通り、この地域は、外国航路の船員をしていた方が多く、お家が大きい。一方で地元出身の若い世代は、仕事で町から出ていくことがほとんど。そのため、「棚からぼたもち」的に公費解体が決まり、これで子どもや孫に迷惑をかけなくて済む、という話はよく聞く。
自然とともにある暮らしが淡々と繰り返されていたところに災害が起き、いきなり「半壊の自宅に住みつづけるか」、「解体できる内に解体するか」という決断を迫られるのである。同時に、「あと○年くらいの人生だから」という逆算がはじまり、「子どもが負担するより公費解体のほうがいいよね」「将来、復興住宅に入ったほうが迷惑かからんやろね」という言葉がつづく。
受け止め方は住人の中でもグラデーションはあると思う。ただ、災害を機に突然受け止めざるを得なかったことを思うと、前向きに暮らしているように見える住人にも、間違いなく大きな負荷がかかっている。
逆算を強いられる世代が地域の過半数を占めているだけに、住人の今後が心配でならない。災害関連死が増える一方であることを考えると、先行きの不透明さが大きく影響しているように感じる。「令和6年能登半島地震による被害状況等について」によると、石川県内の亡くなった方は541名で、その内、災害関連死は313名となっている(3月11日時点)。すでに直接死を上回ってしまっている。

6月13日の地元紙の一面。

地震後、解体が進まず世間からよく叩かれていたが、今はむしろ一気に進んでいる印象がある。ところが、「解体せずに修繕に補助が出る選択肢もある」という行政からのアナウンスを、昨年の11月頃から耳にすることがあった。(正式にいつ公開したかはわからないが、そのような案内を目にするようになったのはそのころ)。
画期的な支援だと思いつつ、離れた家族と何度も話し合いを重ねて解体を決断した住人が多いため、「もっと早く知ってたら伝えたのに…」というのが本音。すべての人が対象になるかどうかは申請してみないとわからないことも多いため、なおさらかきまわしたくない。(もちろん、今後また災害があるときに、別の自治体でも早期に取り組まれるべき制度なので、前例ができるのはむしろ良いことだと思う。)
1か月後に更地になった場所が、元々どんなものが建っていたのか全く思い出せない。次に訪問するときにも、またどこかの風景が変わっているのだろうと思う。

暮らしの尊さ

住人の息子さん娘さんは何をしているのだ、と思われる方もいるかもしれない。金沢など離れたところに暮らす彼らは定期的に通い、ひとり暮らしやふたり暮らしの高齢の親御さんの代わりに、買い物などをしているという話は、本当によく聞く。あわせて、地域の住人たちのフォローもあったことで、連携プレーが行われていたようにも感じる。
そのように、家族や信頼できるコミュニティで暮らしを実現してきたが、災害を機に「わがまま」になってしまうことも。その裏側には、「生産性がないこと」「貨幣経済を支えられないこと」への風当たりの強さを感じるのは、わたしだけだろうか。
目に見えるものを「生産」しないと存在することが許されないのだろうか。ただ息をしているのが生きているわけではない。憲法や法律で保障すべきとされている「人権が尊重されている」状態は本当にこういうことなのか?体育館の雑魚寝から始まる避難生活や、住人の方の話をきいていると、そう感じる。

この岩場は震災前、海の中だった。左手の白く平らにならされているところは、海苔畑として海苔を収穫していた。海岸が隆起したため、今は海苔畑として利用は難しい。

最後に、よくお世話になっているおばあちゃんのことを紹介する。会うたび、「ミョウガ取りに来るか?」など誘ってくれたり、ボランティアにたくさんおしゃべりをしてくれる。いつも軽快なトークをする彼女だが、昨年の秋ごろ、地震で隆起した海苔畑が使えない話題をしていたときのこと。ため息まじりに「はや(もはや)海苔なんてもう食べたいと思わんわ」とつぶやいた。彼女だけでなく、この地区の方たちのほとんど、海苔づくりを諦めかけていた。
しかし、年が明けて1月の終わり。天然の岩場から収穫し、海苔を作る住人が続出。彼女も海苔づくりをした。苔がはびこる岩場を歩くので、相当すべると聞いている。きっと例年よりも収穫量は限られているだろうに、わたしたちボランティアにたくさん、わけてくれた。

放し飼いの猫の話をしながら、みょうがを収穫したときの様子。一緒に収穫したのに、結局すべてのみょうがを持たせてくれた。

これから、復興期に入っていく。「新しい価値」として、ここの文化の良さを貨幣経済に活用することも考えらえるが、それでは根本的な問題は変わらないと感じる。東日本大震災の被災地において、孤独死や関連死は、今なお大きな課題となっている。では、能登での「復興」とは、いったいどのような状態なのだろう。すっきりとした解はない。
「生産性」から遠い印象を受ける能登での豊かな暮らしは、淡々と繰り返されてきた。激しい自然に揉まれながら育まれた強さを持っている、能登の人たち。形が少し変わったとしても、住人の誇る暮らしが、ほんの少しの支えや後押しで実現できたら。実は、ともし火のような心持ちで何とか生きている方もいる。この地の文化や営みが消えぬよう、一人一人が持っているたくましさを吹き消さないよう、長くゆるやかな関わりも必要だと思う。
ボランティアに行くたびに、たくさんの目に見えないものをいただいている気がする。来月、2か月ぶりにみんなに会うのが楽しみだ。