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2025.7.2
オーストラリア アイルランド 芸術家報酬制度 フェア・ペイメント フェア・ワーク 芸術家の社会保障政策 展示報酬権 アメリカ カナダ スコットランド
19世紀以降、視覚芸術家をはじめとするクリエイターの多くは、その専門性を職業として確立しながらも、長年にわたり報酬制度の不透明さや不公平な状況に直面してきました。しかし、20世紀後半になると、各国がそれぞれの文化政策や歴史的背景に基づき、視覚芸術家の報酬水準を保障するための取り組みや制度を発展させてきました。
本稿では、英国を除く英語圏の主要国、アメリカ、カナダ、オーストラリア、アイルランド、スコットランドに焦点を当て、主に2010年代以降の視覚芸術家への報酬保障に関する現状を概観・比較し、それぞれの制度の進化と発展について分析します。なお内容は本稿執筆時点(2025年上半期)のものとなっている点にご留意ください。また英国の状況については本サイト内で抄訳が紹介されている英国の報酬ガイドラインの中で背景を含めて触れられていますのでそちらを御覧ください。
一般的に芸術家の仕事は労働集約型であり、再現性や効率が重視される現代経済の中で、ますます不利な状況に置かれています。言い換えれば、芸術活動で報酬を得ることは年々難しくなり、制度であれ自主的なものであれ、誰も取り組まなければ、無償や極端な低報酬での労働を要求されるケースは増えていくことが予想されます。そして2010年代以降、各種の社会調査研究においてこのことが実証されています(例えば Brook, O., O’Brien, D., Taylor, M. (2020). “There’s No Way That You Get Paid to Do the Arts”:Unpaid Labour Across the Cultural and Creative Life Course. Sociological Research Online, 25(4), 571–588. DOI: 10.1177/1360780419895291)。
これに対して、19世紀後半に国際的に確立されてきた著作権法は、契約面において芸術家を保護する制度です。そこでフランスのように、著作権法の一部に契約法の特別法として、著作権契約法というべき、創作者を契約面において保護する法制があり、米国にも一部同様の創作者保護制度があります。一方で、著作権それ自体は報酬の水準を定めるわけではなく、いくら権利があっても公平な報酬が得られなければ、無償や極端な低報酬に陥る傾向を止めることはできません。また、創作者が持つ著作権の一部である「展示権」は、ヨーロッパの一部地域で導入されている公的な展示報酬権制度の基礎となっていますが、日本の著作権法では厳しく制約され、実務的には無償化されているという現実もあります。
また、各種の助成制度も芸術家の支援の側面がありますが、例えば芸術機関が公的な助成を受けて芸術イベントを企画しても、その先で芸術家の無償や低報酬の労働をさせているというケースも見られます。
このような状況のもと、今回紹介するように、元来、国レベルでの文化振興を積極的に行ってきたとは言えない英語圏の国々においても、21世紀的な文化芸術の持続的な発展を模索した結果、状況の改善に取り組んでいます。その結果、アーティストを職業として確立させることや、無報酬労働の制度的根絶といった労働政策的なアプローチを文化政策の一環として行うことを通じ、公平性回復に向けた取り組みを行うケースが増えています(主体は必ずしも政府や公的機関だけではありません)。つまり、取り組みは歴史的必然性を帯びていると言えるでしょう。
本稿で比較する国々の中で、アメリカは視覚芸術家への報酬に関する公的な制度が最も未整備な状態にあると言えます。そこで、アメリカについては、近年の取り組みを紹介する前に、視覚芸術家の報酬水準に関する歴史を振り返るところからご説明いたします。
1. 初期の状況(19世紀~20世紀初頭)
アメリカでは、長らく視覚芸術家の報酬に関する公式なガイドラインが存在しませんでした。19世紀から20世紀初頭にかけて、芸術家の収入は主に個別の依頼、パトロンからの支援、または作品販売に依存しており、報酬は市場原理や個人の交渉力によって大きく左右されていました。この時期には、労働組合や業界団体による報酬の標準化に向けた動きはほとんど見られず、特に画家、彫刻家、イラストレーターなどの視覚芸術家は経済的に不安定な状況に置かれていました。
2. 20世紀中盤:労働運動の高まりと芸術家の組織化
1930年代の大恐慌期には、連邦政府が「ワークス・プログレス・アドミニストレーション(WPA)」の一環として芸術家を雇用し、壁画や公共芸術作品の制作を支援しました。このプログラムは芸術家にある程度の報酬を提供しましたが、あくまで一時的な救済策であり、長期的な報酬ガイドラインの確立にはつながりませんでした。
1960年代以降、公民権運動や労働運動の影響を受け、芸術家の地位向上を求める声が高まりました。しかし、1968年にカナダのCARFAC(Canadian Artists’ Representation/Le Front des artistes canadiens)が報酬ガイドライン(抄訳が本サイト内にあります)を策定したような具体的な成果は、アメリカでは生まれませんでした。
3. 1970年代~1980年代:自主的な取り組みの出現
1967年に設立された「Graphic Artists Guild(GAG)」は、テレビ局等での著作物使用に関する報酬水準の向上を目指すアドボカシーとともに、職業グラフィックデザイナーやイラストレーター向けに報酬の目安を示すガイドラインに取り組み、1973年に初めて出版しました。『Pricing and Ethical Guidelines』として知られるこの資料は、プロジェクトごとの報酬相場や契約条件を提示し、業界内で広く参照されました。例えば、1980年代版ではイラストレーション1点あたり数百ドルから数千ドルという範囲が示されていましたが、これはあくまで自主的な基準であり、法的な拘束力はありません。なお、この資料は現在に至るまで数年ごとに改定されており、最新版の『Pricing and Ethical Guidelines – 16th Edition』(2021年改訂版)では、イラストレーションの報酬相場が用途や規模に応じて$100~数千ドル、デザイン業務では時間給$30~$150程度と示されています。これらは市場動向を反映した参考値として機能していますが、強制力はなく、個々の交渉に依存します。
また、1970年代には「Artists Equity Association」(1947年設立)などの芸術家団体が、展示報酬(exhibition fees)の必要性を主張し始めました。しかし、これらの動きは全国的な統一基準には至らず、地域や分野ごとにバラつきが残りました。この状況は、現在の日本の状況と少し重なる部分が感じられます。
4. 1990年代~2000年代:デジタル化と新たな課題、W.A.G.Eの設立
デジタル技術の進展により、視覚芸術家の仕事が多様化(例: デジタルイラスト、VFXなど)する一方で、報酬の不均衡がさらに顕著になりました。また、フリーランス芸術家の増加に伴い、低賃金や無報酬での依頼(特に「展示やメディア等への露出を報酬がわりとする」慣行)が問題視されるようになりました。しかし、アメリカでは現在も、視覚芸術家の報酬水準を定める全国的かつ法的に裏付けられたガイドラインは存在せず、州レベルや都市レベルでも存在しません。
そこで、この状況を少しでも改善するべく、2008年にニューヨークで設立されたのが、W.A.G.E.(Working Artists and the Greater Economy)です。W.A.G.E.は、芸術家が公平な報酬を受け取ることを目的とした非営利団体であり、アーティストへの公正な報酬を求める運動を展開し、契約ガイドラインや報酬基準を提供しています。この組織の特徴的な側面は、芸術家と文化機関との関係における透明性を促進することです。例えば、W.A.G.E.が定義する報酬基準は、展示の規模や予算に応じて具体的に計算されます。また、報酬基準の継続的な見直しを行うことで、制度が市場の変化に適応できる仕組みを実現しています。W.A.G.E.は、美術館やギャラリーに対して展示1回あたり最低限の報酬(例: 数百ドル~数千ドル)を支払うよう求めるガイドラインを提案しましたが、強制力はなく、採用は施設の裁量に委ねられています。
5. 2010年代以降:W.A.G.Eの認定プログラムの着実な成果
W.A.G.E.はこの動きをさらに推進するため、2014年には「W.A.G.E.認定」プログラムを導入しました。開始以来、このプログラムは着実に拡大し、2025年現在までに約140の機関(既に認定を外れた機関を含む)が認定を受けています。この認定を受けるために各機関は、各機関の年間運営予算に基づいて算出された最低報酬をアーティストに支払うことを約束しなければなりません。
認定を受けた美術館やギャラリーは展示1回につき$250-$10,000以上の報酬を提供しています。認定を受けた機関は合計で$2,000万ドル以上のアーティストフィーを支払っており、平均して各機関は2年半の間、認定を維持しています。このように、W.A.G.E.の自主的な取り組みは、アメリカの非営利芸術機関におけるアーティストへの公正な報酬の実現に向けて着実に成果を上げています。
W.A.G.E.は「WAGENCY」というプラットフォームを運営しアーティストが自らの報酬を交渉するためのツールも提供しています。このプラットフォームでは、アーティストは月額$5の会費で登録し、仕事先に報酬を要求する際に、標準化された料金を基にしたフォームを使用して報酬のリクエストを自動生成し、仕事先との報酬交渉を行うことを助けてくれます。
このように、W.A.G.E.の活動は、自主的な取り組みとはいえ、アメリカの非営利芸術機関におけるアーティストへの公正な報酬の実現に向けて着実に成果を上げており、今後もその影響力を拡大し、芸術家と機関双方にとって重要な基準を提供していくことが期待されています。
参考:米国のフリーランス保護法制とアーティスト
なお、2020年代に入り、ニューヨーク州やカリフォルニア州ではフリーランス労働者の権利保護を目的とした法律(例: Freelance Isn’t Free Act)が施行され、報酬の未払いや遅延に対する罰則が強化されました。これにより、視覚芸術家を含むフリーランサーが契約書に基づく報酬を請求しやすくなった一方、具体的な金額水準は定められていません。これも日本の状況と重なる部分がありますね。ちなみに米国労働統計局(BLS)によると、2023年の「Fine Artists(画家、彫刻家、イラストレーター)」の平均年収は約$57,000(時給換算で約$27)ですが、上位10%は$10万ドル以上、下位10%は$2万ドル以下と、所得格差が大きいことが特徴です。デジタル分野(例: VFXアーティスト)では平均年収が$8万ドルを超えるケースもありますが、非正規雇用の不安定さが課題です。
いずれにしてもアメリカでは、カナダや欧州諸国(例: 2009年にスウェーデンで締結されたMU-avtalet:視覚芸術家が公的機関と仕事をする際に適切な報酬を受け取れるようにするための国家レベルの協定。抄訳は本サイト内に、またスウェーデンの状況は現地在住のアーティスト、石塚まこさんによる紹介記事があります)のような、公的支援や法的拘束力のある報酬ガイドラインといえるものが存在せず、視覚芸術家の報酬は依然として市場競争や個人の交渉力に依存しています。この背景には、歴史的に、芸術家の労働を「クリエイティブな情熱」と見なす文化が根強く、報酬の標準化に対する抵抗感も存在することが指摘できます。
一方で、W.A.G.E.やGAGのような草の根的な取り組みは、意識改革を促しつつあり、特に若手芸術家やマイノリティの権利向上に寄与しています。今後、連邦政府や州政府が文化政策として報酬ガイドラインを導入する可能性はゼロではありませんが、2025年時点では自主性に委ねられた状況が続いています。
カナダでは、視覚芸術家の権利保護の必要性が1960年代に浮上し、1971年にCARFAC(Canadian Artists Representation)が設立されました。この団体は、視覚芸術家の権利を擁護し、報酬基準を策定する役割を担っています。
CARFACの報酬基準の最大の特徴は、法的枠組みに支えられている点です。連邦政府は1992年の「アーティスト地位法(Status of the Artist Act )」につづき1995年に「芸術家報酬法(Status of the Artist Act)」を制定し、この法律に基づきCARFACが報酬基準を設定する権限を持つようになりました。このように、法的保護を伴う報酬制度は、カナダが他国と一線を画する重要な側面と言えます。
さらに、報酬基準自体も詳細かつ包括的です。展示、講演、制作など、芸術家が関与する活動ごとに具体的な金額が定められており、これにより報酬の透明性と公平性が確保されています。また、CARFACは定期的な調査を行い、芸術家の報酬実態を把握し、基準を更新するプロセスを持っています。
なお、1997年以降、アーティストは地域ごとに認定された管轄区域内の自営業アーティストを代表する団体を通じて、標準契約や報酬基準の実施、年金、失業支援、他の分野の従業員が享受している福利厚生など、さまざまな問題について連邦レベルで団体交渉する権利も有しています。なお中央政府以外でも、ケベック、サスカチュワン、アルバータ、ニューブランズウィック、ノバスコシア、オンタリオの各州では2010年までに州レベルでもアーティストの地位を法的に定義しています(The Status of the Artist in Canada (2010) G. Neil for the Canadian Conference of the Arts)。
近年の制度の進化としては、CARFACがオンラインツールを活用して、報酬基準の計算を簡便化した点が挙げられます。これにより、芸術家自身が契約交渉の際に適正な報酬を簡単に確認できるようになり、制度の利用可能性が大幅に改善されました。
カナダの報酬ガイドラインの抄訳については本サイト内で読むことができます。
オーストラリアでは、視覚芸術家の報酬制度が国家レベルと州レベルで異なる重層的な構造を持っています。国家レベルでは、2023年1月に2027年までの国家芸術政策(National Cultural Policy)の一部として発表された新しい国家文化政策「Revive: a place for every story, a story for every place」において、5本の政策の柱を立て、その1つに視覚芸術家の権利保護や支援に重点を置いています。具体的には「The Centrality of the Artist(芸術家の中心的役割)」と銘打ち、芸術家の職業的地位を強化し、フェア・ペイメント(適正報酬)を実現し、芸術家の労働環境の改善と持続可能なキャリア形成を支援することが目標となっています。これは日本における「文化芸術推進基本計画」などに相当しますが、より労働環境や報酬、文化的権利に焦点を当てている点で特徴的であり、アーティストの待遇改善に関する政府の明確な姿勢が示されています。
こうした国レベルでの視覚芸術家の権利を保護するための指針に基づき、各州が独自の報酬制度を設計しています。例えば、南オーストラリア州政府は、アーティストの労働環境の改善や適正な報酬の確保に向けた取り組みとして、芸術家と文化機関の契約内容を監視する独自の機関として、「Artists at Work Taskforce」を2024年3月に設立しました。これは法定外の諮問機関で、南オーストラリア州の一部のアーティストやクリエイターが経験する労働不安や所得格差に関連する問題について、州の芸術大臣に高いレベルの独立したアドバイスを提供しています。
参考:Artist at Work Taskforceの活動内容
タスクフォースのメンバーは2024年4月から9月にかけて定期的に集まり、南オーストラリア州の芸術、文化、クリエイティブ業界で働く人々が直面している現在の課題を調査しました。こうした取り組みは選挙公約として掲げられ、それが履行されたものです。州政府は、アーティストやクリエイターの仕事が特に不安定であり、創造的な仕事だけですべての収入を得ている人はごく一部であることを認識しています。現実には、多くのアーティストやクリエイターが、芸術関連の仕事と非芸術関連の仕事(教育、ホスピタリティ、観光などの業界)の両方で、カジュアルまたはパートタイムで働いています。タスクフォースは、これらの課題に対処するために南オーストラリア州政府が利用できる権限と手段の範囲内での行動を推奨しました。これらの推奨事項は、業界全体の問題だけでなく、南オーストラリア州の芸術と文化のさまざまなセクターの特定のニーズにも対処しています。―南オーストラリア州政府ウェブサイトより
また、一部の州だけでなく、州間の連携強化の動きもあり、地域差を縮小しつつ、芸術家に対する一貫性ある報酬制度を構築しようとする努力も見られます。
オーストラリアでは、視覚芸術家の業界団体も非常に重要な役割を果たしています。1983年に設立されたNational Association for the Visual Arts(NAVA)は、アーティストの権利擁護、政策策定、契約ガイドラインの整備、パブリックアートの普及などに取り組んできましたが、近年はアーティストへのフェア・ペイメントを推進する活動の一環として、視覚芸術家の報酬に関する「Code of Practice」を策定しています。これは、業界標準となる報酬額を示すだけでなく、芸術家が自分の権利や報酬基準について、またオンライン販売やギャラリーとの契約に関するベストプラクティスも提供されており、アーティストが自身の権利を守るための手段を学ぶことができるデジタルプラットフォームとなっています。また、先述したアメリカのW.A.G.Eの認定プログラムと同様に、NAVAのロゴを使用することで、適正な報酬を支払う組織を認証する取り組みも行っています。
ちなみにNAVAと同じ年に設立され、その当初から緊密な関係のある団体として、芸術を支援する法律専門家による非営利団体「オーストラリア芸術法センター(Arts Law Centre of Australia)」があります。このセンターは、専門的な法務・ビジネス相談、契約書の雛形や法律・契約に関する教材やセミナー等の教育リソースの提供、アーティストへの擁護活動(アドボカシー)を行っています。これは筆者が2004年から運営している日本のボランティア法律家団体Arts and Law(アーツ・アンド・ロー)と同じく、表現・創作活動を支援する弁護士による無料相談を提供していますが、大きく異なるのは、設立当初からアーツカウンシルオーストラリア(※2023年の文化政策改訂以降は「クリエイティブ・オーストラリア」に改組されています)を通じてオーストラリア政府からの多額(日本円にして年1億円を超える規模)の安定的な資金提供を受けていることです。これにより、アート現場を支援する法的相談対応のためのフルタイムの弁護士を雇用したり、専門的なテーマを研究したり、政府内の文化政策や著作権法の改訂を検討するチームやにおいてアーティストを擁護する立場で参加するアドボカシー活動等も行っています。またNAVAのCode of Practiceの主要なアドバイザーの役割を果たしているほか、NAVAと共催で生成AIの法的問題やパブリックアートに関するワークショップを開催するなどしています。このように法的な側面でNAVAを支えるオーストラリア芸術法センターの存在とそこへの政府の投資という歴史を見ると、オーストラリアでは、2023年の文化政策改訂のはるか以前から、長年にわたり、アーティストの公平な契約のサポートに関する公的な投資がされている証左と言えるでしょう。ちなみにNAVAの会長は文化政策学者のスロスビー教授(マッコーリー大学)です。
参考:オーストラリアの芸術家の所得水準
なお、2024年に発表されたスロスビーらによる調査では、COVID-19期間中の2021-22年の収入調査を元にしたオーストラリアのプロの視覚芸術家の平均所得(芸術に関連しない仕事を含む)は約A$54,500で、他の専門職(平均A$98,700)や全就労者(平均A$73,300)と比べて大幅に低いことがわかっています。https://creative.gov.au/research/artists-workers-economic-study-professional-artists-australia
アイルランドでは、Visual Artists Ireland(VAI)による体系的な報酬ガイドライン「Payment Guidelines for Professional Visual Artists」(抄訳が本サイト内にあります)の策定と運用、普及が行われています。報酬基準も詳細に規定されており、政府も文化政策の一環としてこのガイドラインの継続的な更新を資金面でサポートしています。アイルランドでは、公的資金を受けるプロジェクトにおいてアーティストへの適正な報酬支払いが義務付けられているため、Arts Councilや地方自治体の助成金を受ける団体は、VAIのガイドラインに準拠した報酬をアーティストに支払う必要があります。
さらに、芸術家が社会福祉制度にアクセスできる特権があり、これにより芸術活動の継続が支援されています。その最たるものがアーティスト向けのベーシックインカム(Basic Income for the Arts)の取り組みです。これは国家的なパイロット事業として 、2022年に開始され、2025年8月終了予定の実証プログラムで、約2,000名のアーティストに週€325(約$370)の無条件支援が実施されています。なお2025年以降も€35Mの継続支援が予算化されており、政府はこのプログラムを継続的に支援する姿勢を示しています。同国メイヌース大学の社会学者 Jenny Dagg による調査報告(政府プレスリリース)では、参加アーティストから「精神的安定の向上」「創造性の深化」「キャリア意識の向上」と高評価を得たと報告されています。他にも、アーティストを社会福祉制度につなぐ情報発信や、プロのアーティスト向けに失業給付や職業訓練に近い給付を行う制度の適用も行っています。
こうしたことが実現した背景として、VAIが、本稿にも登場したカナダCARFACとオーストラリアNAVA等の協力を得て行った、アーティストの無報酬労働に関する実態調査の結果とそれに基づく報酬ガイドライン策定の試みがありました。この調査で初めて、アーティストが無償での労働を強いられていることが単なる逸話ではなく実態として確認されたのです。そこでVAIは文化機関セクターと協議やインタビューを重ね、さらに芸術団体、資金提供機関、およびCARFACやNAVA等とも協議し、会場やアーティストが公平な支払いレベルを計算し、プログラムやプロのアーティストが非営利スペースで行うさまざまな作業に対して適切な報酬予算を立てることを目的として、最初のガイドラインが作成されました。
参考:Basic income for the Artを検討するきっかけになった調査研究(一部)
“The Social, Economic, and Fiscal Status of the Visual Artist in Ireland (2016)” – Visual Artists Irelandがまとめた報告書。アーティストの貧困/低収入構造を明確に示し、「芸術家の地位を法律で認める必要性」(primary legislation)を強く主張しています。
“The Artist and the State in Ireland: Artist Autonomy and the Arm’s Length Principle in a Time of Crisis” – 危機下での芸術家の自治と国家支援のパラドックスを論じた研究で、いわゆる「アームズレングス原則」の再検討も含まれています。
こうした取り組みは、アイルランド政府が芸術を単なる娯楽としてではなく、社会的に重要な労働と認識し、その担い手である芸術家の生活基盤を保障しようとする強い意思の表れと言えます。またここでは触れませんが、アーツカウンシル・アイルランドとの連携による支援強化や若手支援プログラムの充実も特徴的です。現地在住のアーティスト、増山士郎さんによる詳細なレポートが本サイトで読めますので、ぜひご一読ください。
スコットランドでは、2001年に設立されたScottish Artists Union(SAU)が中心的な役割を果たしており、芸術家の権利擁護と報酬基準の策定に貢献しています。英国議会に対して提出した“Evidence on Creative Industries in Scotland”(英国議会書面資料)では、文化産業における低報酬・不安定雇用の実情を指摘し、最低賃金法の適用や法的保護の必要性を論じています。またScottish Contemporary Art Networkも、2017年にa-nやACME、artquestなど21の団体で共同発表した「Visual Arts Manifesto」にて、公平な契約・報酬・労働条件の法的担保を強く政府に要求するとともに、英国中央政府への政策提言として、税制度や社会保障において「アーティストとしての職業性」を明示的に位置づけるよう訴えています。
近年では、スコットランド政府が推進する「Fair Work First」政策のクリエイティブ分野での適用に注目しています。“Illustrated Fair Work Guide”(2023年刊行・Culture Radar)では、契約、報酬、労働安全、発言権など5つの側面から、創造産業の実践モデルを紹介しています。Creative Scotlandは「Fair Work Statement」を発表しており、芸術機関への助成金交付にあたり、助成対象とる機関に芸術家に対する「Real Living Wage(生活賃金)」以上の支払いを義務付けるガイドラインを策定・施行しています。これは、助成金の条件として芸術家への公正な報酬を直接的に求める画期的なアプローチです。また芸術実践の形態別に報酬ガイドラインを整備してウェブサイトで公開することで、現場での実践をサポートしています。
さらに、スコットランドでは、地域コミュニティとの協力を通じて、芸術家がその活動を広範囲にわたって支援される制度が築かれています。地域アートセンターでの報酬基準の統一化など、地域文化政策との強い連携もスコットランドの大きな特徴であり、継続的な芸術活動支援のための助成制度も整備されています。
アイルランドとスコットランドの両政府は、文化政策の一環として視覚芸術家の経済的基盤の確立を重視し、芸術団体・評議会とともに具体的な報酬基準と支援制度を整備している点が共通の特徴です。また、視覚芸術家の報酬制度において比較的先進的であり、特に芸術家の社会的地位向上に重点が置かれています。また、両政府とも芸術家との対話を重視しており、報酬制度の進化において参加型プロセスを採用している点も共通しています。このようなアプローチは、制度の柔軟性と持続可能性を高めていると評価できるのではないでしょうか。
アイルランドとスコットランドに共通する特徴的な要素は以下の通りです。
上で見てきたように、アメリカ、カナダ、オーストラリア、アイルランド、スコットランドの視覚芸術家報酬制度は、それぞれ独自の進化と発展を遂げてきました。これらの制度は、歴史的背景や文化政策の差異を反映しているもので、単純な比較で優劣を論じることは避けるべきですが、芸術家の報酬の透明性、公平性、社会的支援の観点で大きな役割を果たしているのもまた事実です。そして、自主的な取り組みから文化政策へ、さらに福祉政策との統合へという流れで整理することが可能です。
よって、下の表では制度の発展段階という軸で分類することを試みました。
以下については、本稿対象各国のいずれにおいてもうまくできているとは言えません。特に新しいメディアへの対応についてはすぐに制度化することは現実的ではないと考えられます。一方で他の3つについては共通点があり、制度としての発展段階が高い地域においては、この時代において芸術家への支援をどのように正当化し、民意を調達し続けるかという点も含めてより大きな課題になってくると言えるでしょう。
上記の課題と重なるところが多いですが、放置しておけば専門的な芸術文化に従事する層がどんどん薄くなってしまう(特に地方部において)という状況の中で、限られた財源を使い、アーティストの自主性を確保しつつ経済的なデメリットの支援を制度的に確立させるという点について、どのような解決が図られ悪循環からの脱却を図ることができるか。これらの動向が、今後、各国の芸術家報酬制度をどのように発展させていくか、注視していく必要があります。
各国ともに一定の調査結果を根拠に制度化を検討したうえで実施していますが、調査の中で中で一部見られる傾向として「上の世代のアーティスト、関係者ほどこの問題に鈍感である」という指摘があります。これは経済構造の変化が主たる原因であると考えられますが、いわゆる「生存バイアス」の可能性も考慮する必要があると思われます。また、英語圏の中での比較においても、20世紀まで世界の文化的中心地と言われてこなかった国や地域は、文化政策全体においてより大胆な芸術家保護に向けた制度改革に取り組んでいる傾向が見られます。今回の記事の対象地域ではありませんが、中国を除くアジア各国においても同様の傾向がある可能性を示唆しています。
作田知樹
1979年生まれ。文化政策実務家・研究者。行政書士(Arts & Considerations行政書士事務所)。専門は創作・アートマネジメント環境としての知的財産法、文化行政、文化権(文化的権利/文化的人権)、検閲/表現規制。京都精華大学非常勤講師。2004年、法律家による非営利団体「Arts and Law」を創設し活動(理事)。アートマネージャー・ラボ理事。国や自治体、シンクタンクの文化芸術行政実務や、他の研究者とともに政策形成に向けた調査研究に従事しつつ、芸術文化のプロフェッショナル向けのアドバイザーやコーディネーター、指導者として携わる。著作に『クリエイターのためのアートマネジメント 常識と法律』など。