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活動報告:オンラインレクチャー|芸術にはなぜ「フェミニスト的」思考や実践が求められるのか

Text by 宮川知宙

レクチャー イベント 活動報告

2023.11.16

日時:2023年7月13日(木)21:00 – 23:00
場所:オンライン

art for allが主催、運営するアートワーカーに向けたzoomによるオンラインレクチャー。ゲストは現在ウィーンを拠点として批評家・キュレーターとして活動する丸山美佳さん。ファシリテーターは、クィア系ZINE制作やフィールドワークで丸山さんとも活動を共にする俳優・美術家の遠藤麻衣さん。今回のレクチャーのタイトルは「芸術にはなぜ『フェミニスト的』思考や実践が求められるのか」。前半は丸山さんによるレクチャーが行われ、後半は丸山さんと遠藤さんによるトーク形式でイベントが進行した。

ー”フェミニズムって? フェミニスト的って?”
フェミニズムとは何か? フェミニズムが扱うのは単に「女性」の問題ではなく、社会全体の問題である、ということは今回のレクチャーの中で何度も繰り返し強調された。

丸山さんがまず紹介したのは、ベル・フックスの著書『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』(2000)。その中でベル・フックスは、フェミニズムが扱うのは「女性」の問題というわけではなく、社会全体の問題であるということや、フェミニズムが扱う「性差別」の問題は、誰が差別をしているのかという話よりも、「性差別」というものが構造化された社会では、誰であっても性差別的でありうるということを記している。

フェミニズムにおいて重要なのは、自分たちが常に性差別的な環境の中にいるということを、どのようなレベルで意識して話せるのかということで、ベル・フックスの場合は黒人女性という立場から、白人と黒人の間でのフェミニズムの違いがなぜ生まれるのかについて考えることを促している。

次に紹介された、Banu Subramaniam『Ghost Stories of Darwin』(2014)のイントロダクションの中では、様々な社会的カテゴリーと常に絡み合っている今日のフェミニズムは、(例えば性差別と人種問題をどう考えるのか、などというように、)人間の集団がどのように社会における様々なカテゴリーの問題と一緒くたになって作られてきたかということを考えることである、と述べられている。

ー注意したいこと
次にフェミニズムについて考えるにあたって注意したいこととして、以下の4つが話された。これらは全て、異なる物事の間にある差異に関わる事柄である。

●人種や職業、年齢、言語などそれぞれの間にある差異を見ずに「女性だからみんな一緒」としてしまうことは非常に危険である。それに対し、「女性」などの社会的なカテゴリーを単一的なものとして見ないことは「インターセクショナリティ」と呼ばれる考え方で、日本語では異なるものが交わる「交差性」といった意味を持ち、そのような考えに基づき、人々が持つ属性について常に考え直していく必要があるということ。

●レズビアン、独身女性、トランスジェンダー、ノンバイナリーなどは、異性愛規範に基づいた生殖をする「男/女」の二元論では女性とみなされず排除されてきた歴史がある。「フェミニズム」といったときに、女性が男性から受ける性差別という話になりがちだが、より複雑な差別があることを考えるために、そのような二元論を中心に考えることをやめる必要があるということ。

●フェミニズム運動や抵抗の歴史的な流れは存在し、それらがどのようになされてきたのか知ることは重要だが、そこからはフェミニズムとしては捉えられずに、かき消されていったものもあり、歴史や社会形態によってその形も実践も様々であるということ。

●帝国・植民地主義以降の近代制度を内面化したフェミニズムがグローバルな判断基準になっているという根深い問題があるということにも注意を払いたい。もちろんジェンダー指数や、高い地位に女性がいるかいないかというのは重要ではあるが、その一方でそれが全てではなく、フェミニズム運動の中でも差異を認め合うのも重要である。
例えば近年までは日本語で読めるフェミニズムの書籍は白人によるものが多かったが、有色人種、第三世界のフェミニズムや、デコロニアルフェミニズム、マテリアルフェミニズムなど、フェミニズムは様々な時代や場所で、異なる形で存在していることは忘れてはならない。

ークィアとは?
丸山さんはフェミニズムのなかでも、クィアフェミニズム、トランスフェミニズムという立場をとっている。昨今のジェンダー・バックラッシュや一部のフェミニズムにおいてターフ(トランス排除的ラディカルフェミニスト)言説が蔓延しているなかで、なぜフェミニズムとクィア、さらにはトランスジェンダーの理論家・活動家たちによる実践との繋がりと連帯を話す必要があるのかを強調する。「クィア」とは、男女二元論、生殖を前提とした異性愛が正常とされる社会で、正常とされていない生き方の可視化を促すこと、排除される身体や関係性として語られるものがどのように生存していくかという日々の実践と抵抗を指し、クィアにとっては「どのようにそこにいるのか」という立場のとり方の話をすることが重要である。

性差別的である社会の中で、どのようにNOを言う抵抗や実践をしていくのか、クィアは時にラディカルに言葉を発することでもあり、いかに自分たちを守るのかという点で、時にアングラ的でもある。また、そのような社会においてクィアとフェミニストが、異なる歴史を持ちながらも互いに連携する必要性についても話された。

ー「イズム(-ism、主義)」ではなく、現在進行形の「思考と実践」として
続いて話されたのが、「フェミニスト的思考と実践」において、「イズム」に陥らないことの重要性について。「フェミニスト的思考と実践」は、二元論的なジェンダー/セックスを前提に女性性を主張するフェミニズムとは一線を画しており、「イズム」を用いることはしない。「クィアリング(queering)」、「クィアする」や「であること、なること、知ること(beging, becoming, knowing)」など、名詞的な言葉よりもむしろ固定化されない状態や過程を示す動詞を使うことで、実践とともにクィアを考えていることを示している。

ーなぜ「フェミニスト的な思考と実践」が芸術に“も”必要なのか?
社会と芸術は別のものではない。生きる上でフェミニスト的実践が必要であるならば、それを、排除や差別を生み出す価値観を再生産する仕組みを前提とした芸術にも拡張していくのは当然のことである。しかしその時に、「〇〇をしたらダメ」というような単純なポリティカルコレクトネスに陥ることは避けなければならない。また、植民地主義や帝国主義の問題の一つは、誰が人間として扱われるのかということであるが、それは誰が芸術家として扱われ、誰が排除されてきたかという芸術の問題とも重ねることができる。差異によってヒエラルキーや特権が生まれているとした時に、その価値観をそもそも拒否し、誰が何をしているのかということを考え、それらを再生産しないための実践をどのようにしていくのかというのは、芸術の実践にとっても重要である。

ーVereinigung bildender Künstler*innen Österreichs
続いて、丸山さんが勤めているオーストリア女性アーティスト協会(Vereinigung bildender Künstler*innen Österreichs)の実践について具体的に紹介された。オーストリア女性アーティスト協会は1910年から続く、「女性」アーティスト支援のために設立された協会。当時の女性への性差別に抵抗するために作られたが、階級問題や、人種差別やオリエンタリズムなどに加担、さらに戦中にはユダヤ人メンバー排除を行うなど、協会には様々な問題があった。それらについて協会は戦後沈黙したままであったが、2010年以後、規約に補足を付け足し、「女性」「フェミニズム」「アート」の定義を常に問い続け、その信念や方向性と、その実践を具体的に明記するようになった。それは「すべての性別に対して優しくあること」から始まり、特権やケアに対して注意を払うことや、あらゆる方向に向く暴力に対してとるべき態度などの項目からなっている。それらは頭では理解できる基本的なことだが、実践することや、これを元にコミュニケーションをとることは容易ではない。フェミニスト同士でも難しい感情の衝突は当然あるが、それを自分たちで認め合いながらいかに実践していくかということが重要である。

最後にまとめとして、誰が、どのような構造が、暴力を再生産してしまっているかに注視し、実践に移していくことの重要性に繰り返し触れ、さらに、身近な人や自身をケアし、そこからクリティカルな思考に繋げていくことについても話された。

具体的に、丸山さんが大切にしていることの一つに、文章を書くときに誰に言及するのか、誰をクレジットするのか、ということがある。フェミニスト的思考にとって、誰と一緒に協働するのかは重要な問題である。さらに、自身に特権があるのなら、それを誰とどのようにシェアするのか、例えば、英語にアクセスできるならそれをシェアするのは丸山さん自身ができることではあるが、一方で自分がアクセスすることで他の人のアクセスを妨げるということも起こりうるので、そのような行動が、何にどう影響を与えていくのかを考え続けることもフェミニスト的実践の一つであるとしてレクチャーは締めくくられた。

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レクチャーの後は丸山さんと遠藤さんによるトークが行われた。トークはテーマを決めないという形式を取り、話はあちこち移り変わっていったので、このレポートではトピックごとに短くまとめる形をとった。

ー「わたしたち」という言葉
フェミニスト的な実践は決して一人で行っているわけではないということは非常に重要だが、遠藤さんは自分自身が、今日の新自由主義的な社会の中で、「わたしたち」という言葉を使うことを避け、個人的な思考に落ち入ってしまいがちな世代かもしれないと話す。そんな中、それぞれ異なる細部を保持したままで、いかに「わたしたち」という言葉を使うことができるのか。それが生み出す分断のことにも触れながら話された。

ーメディエーターという存在
オーストリア女性アーティスト協会の規約に関する実践は、組織の構造的な変更、解体であった。しかし、構造を変える際、あるいは変えた後には衝突が起こることもある。丸山さんの場合は解決しづらい衝突が起きた時に、会話を手助けしてくれるメディエーターを見つけることができたという。メディエーターを選ぶ時には、ある程度思考が近い人でないと、自分の持つ辛さをゼロから説明することになり、対話になりづらくなるケースもあるので注意が必要である。

ー産む性だけが女性ではない
ダナ・ハラウェイの「状況化された知識」という概念に触れながら、女性は生殖器を持って子供を産むことができる性(セックス)で、それが自然であるという言説は狭義的に作られてきたものであることについて話された。どのように性が作られたのかという話をした時に、なぜ生殖器の有無が問題になるのかという話をする必要がある。生殖できるという身体が市民権を獲得し、それ以外が異常化され社会空間から排除されるような、「誰が市民になれるのか、誰が異常化されているのか」という問題は、現在日本社会でも起こっている移民、難民の排除にも関わっている。

ー乗らなくてもいい議論
レクチャーの中で、問題が可視化された時に、その問題について議論するのではなくて、なぜそのような問題が始められるのか、そもそもを問うていくことの重要性に触れていたが、遠藤さんはそれらを阻害するような「乗らなくていい議論」が蔓延しているのではないかと指摘する。例えば、ターフたちが使うトイレ使用の問題などは、家父長制が抱える社会の問題を歪曲化してトランスジェンダーの問題として扱うための暴力的な言説であり、SNS上などでは恐怖を煽るための議論だけが暴走し、何を言っても応酬されてしまう「乗らなくていい議論」のわかりやすい例となってしまっている。スティグマや差別的な言説を強化することがあってはならない。それに乗ってしまうことで問題の根幹を見えなくしてしまったり、暴力を再生産してしまうような議論は確かにある。どの議論に乗るのか、乗るならばどのような形で対処するのかという取捨選択と状況に合わせた議論への参加が必要になってくる。

ーMai Ling
ドイツ語で女性、レズビアン、インターセックス、ノンバイナリー、トランスジェンダーを指すFLINT*という言葉がある。オーストリアのアジア系FLINT*のアーティストコレクティブ、Mai Lingのことに触れた。Mai Lingが参加したフェスティバルでディレクターが人種差別的な発言をしたテキストを出版した際、Mai Lingが他のアーティスト達とともにステートメントを出した。コレクティブは異なる歴史を背負った異なる人々の集まりでもあり一枚岩というのはありえないが、コレクティブだからこそできる実践もある。
https://www.instagram.com/mai.ling.vienna/?hl=ja (Mai Ling Instagram)

ー現場のハラスメント対策
遠藤さんは、ハラスメント防止の一環として、対策を具体的に文書化する組織は増えているが、それらはハラスメントが起きた時に組織を守るための予防線になっていて、被害を受けた個人は本当にそれで守られるのか疑問に思うことが多いと話す。レクチャーで紹介されたオーストリア女性アーティスト協会の規約は、契約というよりも一時的な約束という意味合いが強い。問題が起きた時に、具体的にどうしてそれが問題だったのか指摘するためのツールとして機能させることができる。

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差別を前提とした社会構造に目を向け、人々の間にある差異を保ちながらも連帯し、それらについて常に考え続ける。そのようなフェミニズム的思考と実践は、アートやそれと地続きの生活の中で常に求められている。今回のレクチャーはアートワーカーに向けられたものであったが、そのような思考と実践は、社会の中のあらゆる場所で行うことができるはずだ。

今回のトークで最も印象に残ったのが、遠藤さんがトークの開始時に「話しながらなんか見つかっていけばいいな」と言ったこと。軽やかなその態度自体が固定化されない状態に対して積極的であるフェニミスト的実践の一部であるように感じられた。